なぜ菊池は麻雀を愛し、どこに魅力を感じていたのだろうか。麻雀について言及した随筆の中では、次のように書かれている。
〈麻雀の世界は、生活とはなれた一つの楽園である。実生活では、我々はあまりにも煩わしく、またあまりに退屈である。しかし麻雀の世界では、そこに何と大きい夢が見られることだろう。実生活ではあまりに束縛された空想が、そこでは自由に羽をのばすことが出来るではないか――〉
この随筆には、リアリストであった文豪のまた別の一面がのぞかれる。
無類のギャンブル好きだった菊池は、1936年に個性あふれる競馬の戦術書『日本競馬読本』を著している。
ハウツー本でもある同書の中で広く知られているのが「我が馬券哲学」と題した章で、〈堅き本命を取り、不確かなる本命を避け、たしかなる穴を取る。これ名人の域なれども、容易に達しがたし〉と、馬券戦術の奥義を伝授する。
“千点十円”で直木三十五の追善マージャン大会
宇野千代や東郷青児らが一斉検挙された「麻雀賭博事件」で、対象となった著名人は20数人に及んだ。
そのうちには留置場に一泊を強いられた者、数時間の事情聴取の後、即日解放された者、あるいは何らかの理由で召喚されなかった者もいた。
1934年3月17日の午後3時すぎ、放免組の一番手として菊池が姿をあらわした。
湿った空気が充満する暗い地下道を抜け、警視庁を退場した菊池を待ち受けていたのは、同じ出版業を営む改造社の山本実彦社長と、名作『路傍の石』や『真実一路』で知られる作家の山本有三であった。
出迎えの2人は取り巻く新聞記者たちを振りきるように、菊池をかばいながら、待たせてあった乗用車に乗り込む。
「早く会社に行ったほうがいい」
山本実彦の言葉に、菊池は無言でうなずく。
ようやく文藝春秋社の社長室に落ち着いた3人は、秘書が運んできた熱い日本茶をすすった。
「不愉快な思いを…」
菊池と同世代の山本有三は、友人を気づかうように、優しい視線で見つめる。
「引っ張られたのは、しょうがないさ。直木の追悼会を大々的にやったから、それが発覚したんだろうね」
直木は肺結核と脊椎カリエスのため、43歳の若さで永眠。この年の2月14日、文藝春秋社の社葬として葬儀が行われたのは、長年にわたる菊池の友情によるものであった。
菊池が口にした直木の追悼会については、『東京朝日新聞』の朝刊社会面に3段見出しで掲載された。
〈菊池寛氏ら二十三名昨夕釈放される〉
〈(略)また直木三十五氏の追善マージャン会を芝区(現港区)田村町の東屋会館で開き、福田蘭童、多賀谷信乃、川崎備寛らが千点十円くらいの勝負をやっていたこともわかった〉
麻雀好きだった直木に対するはなむけの気持ちで、菊池は追善大会を開いたのだった。
菊池寛(きくち・かん)
1888(明治21)年~1948(昭和23)年。京都帝国大学英文科を卒業後、日刊新聞『時事新報』の記者となり、1919年に退社して執筆活動に専念。文藝春秋社(現在は株式会社文藝春秋)を創設した実業家でもある。
灘麻太郎(なだ・あさたろう)
北海道札幌市出身。大学卒業後、北海道を皮切りに南は沖縄まで、7年間にわたり全国各地を麻雀放浪。その鋭い打ち筋から「カミソリ灘」の異名を持つ。第1期プロ名人位、第2期雀聖位をはじめ数々のタイトルを獲得。日本プロ麻雀連盟名誉会長。
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