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真珠夫人・菊池寛が開いた“直木三十五追善大会”~灘麻太郎『昭和麻雀群像伝』

Nor Gal / Shutterstock

2002年に大ヒットした昼ドラ『真珠夫人』(フジテレビ系)の原作者・菊池寛には、さまざまな顔があった。

京都帝国大学卒業後、菊池は『時事新報』の記者として活動。偉大なジャーナリストの側面は、のちに総合月刊誌『文藝春秋』の発刊に結びつく。

文藝春秋社の創始者であり、経営者としての才覚も持ち合わせていたが、菊池の身上は「生活第一、芸術第二」という姿勢にあらわれている。実務派であり、合理主義者でもあった。

作家としての人生は『父帰る』『屋上の狂人』などの戯曲や、『恩讐の彼方に』『無名作家の日記』といった小説に代表されよう。

作家仲間でもあった芥川龍之介(1892~1927年)と直木三十五(1891~1934年)の功績をたたえて、芥川賞ならびに直木賞という文学賞を設立。この二大小説賞は今なお文壇で主役の位置を占めている。

菊池は1920年に発表した『真珠夫人』が大評判となり、流行作家として脚光を浴びた。5年後に書かれた『第二の接吻』では、日本の小説で初めて麻雀の実戦場面を描いている。

自ら日本麻雀連盟の“初代総裁”の座に就く

〈牌は方形に並べられた。最初の親には京子がなった。方形に並べられた牌の中から、一度に四枚ずつめいめいの牌を取った。親の京子が最初に九万と書いた牌を捨てた。

「九万」彼女は勢いよくいった。

「チー」そういって横にいた宮田がその牌を取り上げると、自分の持っている牌の中から、「東風」と叫びながら「東」と書いていた牌を手早く捨てた――〉

牌を捨てるごとに名称を口にするあたり、後年の五味康祐や阿佐田哲也らの麻雀小説とは趣を異にする。

自作の中に麻雀シーンを組み込むほどだから、菊池の麻雀熱は相当なものだった。自ら名乗り出て日本麻雀連盟を結成し、初代総裁の座に就いている。

文壇に麻雀を広めたのも菊池であり、二代目総裁になった久米正雄をはじめ、直木三十五、志賀直哉、里見弴らが、日夜、熱い闘いを繰り広げていた。

彼らは銀座にあったカフェ『プランタン』(現在の文壇バーに相当)にたむろし、アルコールを傾ける。麻雀メンツがそろうと4人で場所を移動した。この一団は〝プランタン派〟と名付けられた。