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山本小鉄「あっ、ちょっと待ってください!」~一度は使ってみたい“プロレスの言霊”

山本小鉄「あっ、ちょっと待ってください!」~一度は使ってみたい“プロレスの言霊” 
山本小鉄(C)週刊実話Web

1963年、力道山最後の弟子として日本プロレスに入門し、プロレスラー、コーチ、現場監督、試合解説者、レフェリーなど、さまざまな形でマット界の発展に尽くした山本小鉄。その生真面目な性格から生み出された伝説は、今もなお語り継がれている。

80年代の新日本プロレス黄金期、テレビ朝日系『ワールドプロレスリング』の名物といえば、古舘伊知郎による言葉巧みな実況だったが、放送席でコンビを組んだ山本小鉄の解説も、また見どころの1つであった。

「リング上はテレビ用の照明の熱で40度以上になる」「パイルドライバーはリングの鉄骨を組んだ部分を狙って落とす」「延髄斬りはしっかり当たるよりもカスったぐらいのほうが効く」など、これらプロレスのうんちくを山本の解説で知ったという人も多いのではないか。

「この関節技はまだ極まっていません」「これをやられるとキツいんです」というような元レスラーならではの視点は、リング上の試合を、より一層コクの深いものにしてくれた。

1980年、アントニオ猪木が山本に「今のテレビ中継で解説している記者たちは、プロレスラーの技の本当の凄さや痛みを理解していない」と、テレビ解説を依頼した。山本としてはまだ現役を続行したいという思いもあったが、結局、猪木の申し出を受けて引退を決めたという。

この猪木の見立てがズバリと当たり、山本は解説者として現役時代以上の人気を博すことになる。

また、並行して審判部長も務めていたことから、テレビでの解説中にリング上で何かしらのトラブルが起きると、「あっ、ちょっと待ってください!」と古舘の実況をさえぎってリングへ向かうことも多かった。

そんな颯爽とした山本の姿は会場に緊張感をもたらすのと同時に、「小鉄さんが介入するということは、今すぐに不透明な決着で試合が終わることはなさそうだ」と、ファンを安心させることにもなった。

外国人レスラーにも求めた「小鉄イズム」

72年の新日プロ設立当初から、山本は道場でのコーチ役や現場監督として団体の土台を支え続けてきた。新日のシンボルである「ライオンマーク」のデザインや「キング・オブ・スポーツ」のキャッチフレーズも、山本の発案によるもので、トップの猪木がリング上での試合や対外的なアピールに専念できたのは、こうした山本の貢献があればこそだった。

性格は真面目そのもので、解説を務めるにあたっては会話教室に通い、道場では〝鬼軍曹〟として若手を鍛える一方、自ら率先してトレーニングを行っていた。新日道場における「小鉄イズム」のような根性論は、今の時代に受け入れられないのかもしれないが、山本が新日のレスラーたちを個性的に育てたことは紛れもない事実である。

しかし、そんな「小鉄イズム」を外国人レスラーにも求めるあたりが山本らしいところで、レフェリーとしてさばいたタイガーマスクVSエル・ソラールでは、試合中のアクシデントでソラールが左肩を脱臼し、明らかに棄権したがっているにもかかわらず、山本が腕を引っ張って治そうとしたこともあった(伝説のアンドレ・ザ・ジャイアントVSスタン・ハンセンと同日の81年9月23日、田園コロシアム。試合は異変を察したタイガーが蹴りの連発から関節技で勝利)。

信念で断行したクーデター事件

83年の新日クーデター事件において、山本は首謀者の1人であったが、テレビ朝日の介入もあってクーデターは白紙撤回。普通ならクビを切られるか自ら辞表を提出するかのいずれかだろうが、あえて山本が新日に残ったのは、「事業にのめり込む猪木さんを諫めなければ、会社は良くならない」という強い信念があったからに違いない。

その後、長州力とそのシンパが現場監督やマッチメーカーを占めるようになると、山本は企画宣伝部長に回されたりもした。事実上の左遷であったが、これに恨みつらみを言うことは一切なかった。テレビのバラエティー番組に出演する機会も多かっただけに、退社してタレントとなる道もあっただろうが、山本はそれを良しとしなかった。

同時期に新日を辞めたミスター高橋が、いわゆる暴露本を出版したのとは対照的であり、山本はこれを厳しく批判したものだった。いくら現状の扱いが悪くとも、新日を愛する気持ちは決して揺るがなかった。

2007年3月6日、後楽園ホールで開催された新日旗揚げ記念日大会では、「第1回NJPWグレートレスラーズ」の表彰式が開催された。蝶野正洋の呼び込みにより満場のコールを受けて登場した山本は、同じく表彰を受けた猪木(不参加でサイモン猪木が代理)、坂口征二、星野勘太郎の誰よりも誇らしげに見えた。

そして、第1試合で久々のレフェリーを務めた後、「私にとって(旗揚げからの)35年は長いようで短かったという気がします。いろいろなことがありましたが、よくぞここまで来てくれた。みんな頑張ってくれたなという気持ちです」と、力強く語ったのだった。

《文・脇本深八》

山本小鉄
PROFILE●1941年10月30日生まれ~2010年8月28日没。神奈川県横浜市出身。 身長170センチ、体重100キロ。得意技/屈伸式ダイビング・ボディ・プレス。

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