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作家・藤原審爾“短編小説の名手は雀力もプロ級”~灘麻太郎『昭和麻雀群像伝』

作家・藤原審爾“短編小説の名手は雀力もプロ級”~灘麻太郎『昭和麻雀群像伝』 
灘麻太郎『昭和麻雀群像伝』(画像)polkadot_photo / shutterstock

映画化されて話題を呼んだ『秋津温泉』や『赤い殺意』の原作者でもあった藤原審爾は、私小説の大家として知られた外村繁に師事し、当初は純文学作家として活動を始めた。

その後、1952年に第27回直木賞を受賞したのを機に、エンターテインメント分野に転出。SF以外すべてのジャンルの作品を書きまくり、文壇のボス的な存在として多くの後輩たちに慕われた。

藤原は多彩な趣味人としても知られ、文壇のほかにも多くの知遇を得ていた。酒色はもとより囲碁、将棋、麻雀、パチンコから陶器、野球に至るまで、いずれも趣味を超越した高いレベルにあった。

中でも野球と麻雀は群を抜く入れ込みようで、野球チーム「藤原組」のオーナー兼監督として、69年には東京都を代表し、長崎国体に出場したほどであった。面倒見のいい親分肌の藤原は、仕事にあぶれているチームのメンバーを見ると、付き合いの深い出版社に就職させてしまう。それくらい隠然たる力を持っていたのである。

また、藤原組と並び「藤原道場」と呼ばれるグループが存在していた。メンバーは作家の色川武大(阿佐田哲也)、高橋治、三好京三をはじめ、随筆家の江國滋に映画監督の山田洋次、俳優では垂水悟郎などで、スポーツマンも少なくなかった。

彼らは藤原を師、親分と尊んでいたが、小説の弟子ではなく、強いていえば麻雀の弟子だった。青山学院大学在学時から雀ゴロとして鳴らした藤原はプロ級の腕前で、色川といえども足元に及ばない。

その藤原が道場主を務める麻雀は、仲間内で和気あいあいと楽しみ、打ち興じるといった手ぬるいものではなかった。

三味線、ブラフ、ジョークあり。リーチを掛けながら「ドラは通るよー」の声につられてドラ牌を切り出すと、すぐさま「ロン!」と言われる。三味線に引っかかったほうが悪い、というわけだ。

「麻雀は戦争である」

捨牌をする際、牌の種類を口にしながら、まったく別の牌が出てくるなど日常茶飯事。反則スレスレのプレーが横行する。

「麻雀は戦争である」

これが藤原道場のモットーで、戦争の最中に敵の言うことを信じるほうがバカであり、よって「己の間抜けさ加減を反省すべし!」ということなのだ。

反則ギリギリの摸打が展開される中、罰則も厳しい。先ヅモ、それも山の上に指1本触れただけで、ポン、チーは一切許されない。牌の下側を指先でなぞれば、明らかに先ヅモだが、藤原道場ではさらに厳密になっている。

また、ツモの際、あるいは自分の牌山を動かしているときやドラ牌をめくるときなどに、誤って牌を落とすケースがあるが、これも1牌につき何点というペナルティーが科せられていた。

これくらいルールが厳しいのだから、積み込みをやる者が存在するとは、とても思えないが…。

藤原組の厳格な「ハウスルール」を順守しながら、いかに巧妙な技を繰り出して相手を封じ込むことができるか。藤原は生涯にわたって麻雀を知的なゲームと位置づけ、その神髄を極めようとしていた。

麻雀をテーマにした唯一の短編小説『麻雀で天国へ行こう』を収録した作品集『女類妻族』が、69年に報知新聞社より刊行されたが、ユーモアに満ちていて、短編小説の名手、藤原らしい作品であった。

私が藤原に初めて会ったのは78年、ある出版社に打ち合わせに行った折、社長室に藤原がいるということで紹介され、いろいろ話を聞くことができた。

修羅場をくぐった本格麻雀

灘「麻雀をやり始めたのはいつ頃ですか?」

藤原「38年だね」

灘「戦前ですね。その昔、麻雀クラブでアルバイトしながら、お客相手に打っていたと聞いたことがあるんですが?」

藤原「そう、暴力団に頼まれて打っていたんだ」

灘「修羅場をくぐり抜けた本格派の麻雀だから、強くて当たり前ですね」

藤原「若い頃は誰しも、むちゃをするもんだよ」

灘「藤原さんのところに色川(武大)が現れたのは何年前ですか?」

藤原「25年ぐらい前かな。その頃に『小説』という同人誌があって、彼は一番若い同人だった。しばらくして編集者になってね」

灘「麻雀はどうでした?」

藤原「色ちゃんは弱かったけど、筋は良かった。僕の麻雀弟子なんだ」

灘「ある編集者が忙しいさなか、連日、藤原道場に通っていました。徹夜で帰って会社に行き、ぶっ続けで働いて、夕方になるとまたのこのこ出かけて行く」

藤原「フフフフ…」

灘「そのうち目がくぼんで顔面蒼白になって、それでも行ってました(笑)。だけど、道場主は大病を患ったのにタフですね」

藤原「だから、いかに楽にやろうかと考えているわけだ。結局、遊ぶなら金を使わなければダメだ。くたびれるのは、ただで遊ぼうとするからだな」

灘「ズバリ、トップをとる秘訣は?」

藤原「早くアガるというのは、トップをとる秘訣じゃないかしら。でも、それを考えていくと、勝負は南場に入ってからだね。そこからは最短距離のトップがある。東場の初っぱなから最短距離というのはないね」

藤原が亡くなって37年にもなるが、このときの会話は今でもよく覚えている。

(文中敬称略)

藤原審爾(ふじわら・しんじ)
1921(大正10)年3月7日生~1984年12月20日没。48年に本格的な作家活動に入る。数回の候補の後、52年に『罪な女』『白い百足虫』『斧の定九郎』の短編3作で第27回直木賞、62年『殿様と口紅』で第9回小説新潮賞を受賞。

灘麻太郎(なだ・あさたろう)
北海道札幌市出身。大学卒業後、北海道を皮切りに南は沖縄まで、7年間にわたり全国各地を麻雀放浪。その鋭い打ち筋から「カミソリ灘」の異名を持つ。第1期プロ名人位、第2期雀聖位をはじめ数々のタイトルを獲得。日本プロ麻雀連盟名誉会長。

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