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田中角栄の事件史外伝『忠臣・二階堂の乱――竹下登と張り合う身中の虫』Part1~政治評論家・小林吉弥

田中角栄の事件史外伝『忠臣・二階堂の乱――竹下登と張り合う身中の虫』Part1~政治評論家・小林吉弥 
衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

「田中さん。私とあなたの認識は違っている。私はここに、あなたと刺し違える覚悟で来ている。もう私はあなたの言うことは聞かない。これは私の遺言のつもりで聞いてほしい」

昭和59(1984)年10月27日の早朝、東京・目白の田中角栄邸母屋の一室で、主の田中と田中派の重鎮にして自民党副総裁の二階堂進がサシで向かい合っていた。時に、中曽根(康弘)内閣は、1カ月後に中曽根の自民党総裁としての「再選」が問われる総裁選が待っていた。

もともと二階堂は、中曽根とは性格的にソリが合わず、一方でタカ派的発想の政治姿勢にも批判的であった。ために、「再選」には疑念を持っていた。

そうした中で、タカ派の中曽根ではなく、リベラルな政権運営を望む公明、民社両党の間で、密かに〝中曽根政権つぶし〟が練られていた。自民党総裁選に中曽根以外の対抗馬に出てもらい、その後の首班指名選挙で、自民党の一部と公民両党でこの対抗馬を担ぎ、多数をもって新政権を誕生させようという謀議である。

時に、中曽根自民党は、田中のロッキード裁判一審有罪判決を受けて、その後の総選挙では敗北、新自由クラブと連立を組むことで、からくも政権維持を図っていた背景があった。

公民両党とすれば、こうした自民党内の〝窮状〟ぶりから、クーデターによる親野党政権の誕生は可能との読みがあった。そのうえで、両党が狙いをつけた対抗馬が〝中曽根嫌い〟で知られる二階堂だったのである。その公民両党の読みを、当時の政治部デスクは筆者にこう語ってくれたものである。

無罪獲得まで田中派から総理候補を出さない!

「まず、二階堂は『(田中角栄とは)合わせ鏡』『趣味は田中角栄』と口にするほど惚れ込んでいる田中の忠臣だ。田中の二階堂への信頼感もまた、田中派内では圧倒的なものがある。つまり、二階堂が対抗馬として決断してくれれば、田中もやむなしで『二階堂政権』を容認するだろうと読んでいた。

一方で、この〝中曽根政権つぶし〟は自民党内にも広がりを見せ始め、先の田中と二階堂のサシでの会談の頃には、すでに自民党内では支持者の数で二階堂が中曽根を上回っていた。ために、二階堂も『このチャンスは譲れない』で、田中に決死の覚悟で総裁選出馬容認を取り付けにきたということだった」

ところが、田中の思惑は違っていた。ロッキード裁判一審有罪判決を受け、なんとしても次の控訴審で無罪を勝ち取りたい。そのためには、「闇将軍」と言われた自身の政治力を低下させるわけにはいかなかった。そのためには、「無罪獲得まで田中派から総理・総裁候補を出さない」というものだった。

派内から総理・総裁候補が出ることになれば、田中自身のにらみが緩んだことを意味する。田中とすれば、そのことで今後の裁判に微妙な影響が出るとの思いが強かったようだ。また、田中派から総理・総裁候補を出せば、「ロッキード隠し」との世論からの逆風は必至であった。ために、竹下登、金丸信、小沢一郎らが進めようとしていた派内の「世代交代」も、しばし待てということだったのだ。

さて、田中邸でのサシでの会談は、相当、激しいやりとりがあったとの後日譚があった。当時の田中派担当記者の、次のような証言が残っている。

部下に寝首をかかれる夢…

「田中は初め、『俺とあんたは夫婦みたいなもんじゃないか』『あんたは(田中派の)切り札だ。来たるべき日は必ず来る。(公民両党が動いても)乗るな』と穏やかな口調だったが、激高する場面も少なからずあったらしい。

ロッキード事件に絡んで、二階堂が全日空からカネを受け取っていたとの疑惑で〝灰色高官〟とされたことに言及、『あなたと刺し違える覚悟で来ている』などの言葉に対し、つい二階堂に『あんただって灰色高官と言われたくせに、俺にそういう言い方はないだろう』とも口にしたといわれている。忠臣までが、自分のロッキード問題に触れてきていることに、我慢ができなかったようだった。

一方、二階堂にも思惑ありで、田中の前で強気に出たのは大平正芳首相の急逝(昭和55年6月12日)により鈴木善幸が後継首相になったことで、『あのゼンコーが総理になれるのなら俺も』との色気も出たのではと、もっぱらだった」

一般のビジネス社会などでも、強いリーダーシップを発揮する指導者ほど、一度や二度は信頼する有力な部下に寝首をかかれる夢を見ることがあるらしい。

田中角栄という希代の実力者も例外でなく、反旗をうかがう竹下登に加え、よもやの忠臣・二階堂進という、もう一つの「獅子身中の虫」を抑え込むことに、文字通り死力を尽くすことになる。

なぜなら、この「二階堂の乱」に続き、竹下が田中派内に派中派としての「創政会」を旗揚げしたのは、わずか3カ月後の出来事だった。田中は、その「創政会」旗揚げから1カ月もたたないうちに脳梗塞で倒れ、政治生活に事実上、幕を引くことになる。まさに、死力を尽くしたということだった。

さて、問題の田中、二階堂のサシでの会談は、意外な方向に展開していくことになる。

(本文中敬称略/Part2に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。

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