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田中角栄の事件史外伝『兵隊やくざ――“田中政治の原点”型破り戦場秘話』Part6~政治評論家・小林吉弥

衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

夜中に上官に隠れて仲間と酒盛りをする、応召前に付き合っていた女性からラブレターは来る、立哨はさぼるなど、とても模範兵とは言えなかった田中角栄だったが、陸軍盛岡騎兵隊第三旅団第二十四連隊第一中隊として最前線の北満州に渡って1年後の昭和15(1940)年春には、二等兵から上等兵になっていた。

と同時に、「あの男は兵隊としてはなっていないが、ただの兵隊ではない。たいへんな才覚を持っている」として、その頃には旅団の幹部たちに名を知られるようになっていた。

こんなエピソードがある。

田中が連隊本部の酒保(兵営内にある兵士相手の日用品や飲食物などの売店)係をしていたとき、連隊長が視察に来たが、本部前に大型の軍用トラックが止めてあり、連隊長の車が中へ入れなかった。軍用トラックの運転手は、所用で運転席にはいなかった。

当時の軍隊には自動車班というものがあり、ここに所属していない兵隊で車の運転ができる者は、ごくわずかだった。連隊長の車の周りには士官がいたが、オタオタするだけで運転できる者は皆無だったのである。

そのとき、田中が申し出た。

「私は東京にいるとき、自動車の運転を少し習ったことがあります。うまくやれるか分かりませんが、やってみましょう」

田中も、もとより大型の軍用トラックなどを運転したことは一度としてなかった。こうした切端詰まったときの〝なんとかなるだろう精神〟は、のちに政治家となったときの持ち味でもあった。

「田中あり」が連隊内に広まった決定打

結局、田中は見よう見まねで運転し、連隊長の車が本部に入れる通用門までトラックを後退させることに成功した。もっとも、アクセルとブレーキを踏み間違え、トラックの車体を通用門にぶつけるという失態もみせている。

しかし、連隊長も士官たちも「悪気でやったのではない。仕方がない」と、むしろ笑顔を見せたのだった。田中の名前が、旅団幹部らに知られるようになったひとつのきっかけであった。

そうした「田中あり」が連隊内に広まる決定打となったのは、連隊本部が音をあげた「初年兵教育計画」の書き直しを田中が一晩で仕上げてみせたことであった。

この「初年兵教育計画」とは、毎年度、連隊本部から旅団、さらには軍司令部に提出されるもので、このとき第一中隊は連隊本部に「こんな杜撰なものでは上に出せない。即刻、作り直せ!」と、提出期限まで2日しかないにもかかわらず、突き返されていた。わずか2日の間に代案を作り、軍司令部が見ても一目瞭然で分かるよう、方眼紙にきちんと清書する必要があったのである。

あせった中隊長は脂汗をかき、古参の下士官に計画表の書き直しを命じたが、誰もが「2日ではとうてい無理」と、尻込みするばかりであった。ここで中隊長が目をつけたのが、東京・市ヶ谷の陸軍士官学校を出て、この北満州の第一線部隊に着任して間もなかった片岡甚松見習士官だった。

片岡は着任早々、立哨は怠ける、軍帽もかぶらずの第一中隊の兵隊にあきれ果て、怒り心頭、横一列に並んだ兵隊に、次々と強烈なビンタを浴びせたことがあった。そのだらしない、ビンタを浴びせた兵隊のひとりが田中であった。

中隊長が片岡に命じた。

「片岡見習士官、中隊本部付きの田中上等兵はおらんか。アイツにやらせたいが」

田中角栄の“コンピューター”が全開!

中隊長が田中の名前を出したのは、こんな理由があった。田中は兵隊の中では珍しく、普段から早稲田大学の建築の講義録を持ち込んでは勉強しており、それならと厩の設計を頼んでみると、満足のいくものを造ってみせたことが脳裡に浮かんだのだった。片岡は中隊長に、「田中上等兵ならいいと思います」と答えた。炯眼の持ち主である片岡は、一方で田中がなかなかの人物であることを読み切っていたのである。

呼ばれた田中を前に、中隊長はこう命じた。

「今夜中になんとしても書き上げろ。おまえに頼むしかない」

ここで田中が後年、一を言えば十を知ると言われた「コンピューター」ぶりが、一気に全開した格好だった。

「中隊長、これは軍隊の仕事でなく職人、技師の仕事であります。ために、そのしきたり通りにやらせていただきたいが、条件をのんでいただけますか」

言うも言ったりである。「上官の命令は、朕の命令」とされていた中で、上官に条件をつけるのだから、傍らにいた片岡見習士官も仰天した。しかし、中隊長は「分かった」と言った。それだけ、自身の立場も切端詰まっていたのである。

ここで田中が出した条件は、自分が仕事をしやすいように「上官といえども指示通りに動いてくれなくては困る」ということだった。

若くして地べたを這い、事業を成功させていた田中は、人は結局、自分の保身、利のためには無理をのむものだと見抜いていた。中隊長も自らの保身のためには、田中の言い分をのむしかなかったということである。

中隊長の〝お墨付き〟を得た田中は、ふだん新兵をいいようにいびっていた古参下士官らに次々と指示を出し、右往左往させては計画づくりを進めた。まさに、度胸は満点であった。

(本文中敬称略/Part7に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。

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