実は美容エステにも通い詰め…政争の裏に埋もれた田中角栄“仰天秘話”



無修正の艶映画には「ワシは行かん!」

「記者団はストリップ劇場でロスの夜を楽しんでいたが、艶技“泡踊り”が佳境に入った頃、なんと田中、福田の両雄が秘書官らを引き連れて劇場に入ってきたのです。ご両人、舞台の最前列に腰を下ろしましてね、踊り子が激しく動くたびに泡が飛んでくるので、盛んに首を振ってよけていた。そのあとロスにいた田中の知人が、本場の修正なし艶映画に誘ったところ、福田は『行こう、行こう』だったが、田中は『ワシは行かん。見たくない』で、結局これは実現しなかった。田中には女性問題もあったが、あとで記者たちからは、『田中は単なるスケベではないようだ』という声がしきりだった」

田中は、行政改革に熱心な政治家でもあった。

持ち前の「発想の転換」を縦横に駆使し、例えば、役所の課長を3倍に増やしたらどうか、という提言もしていた。

これは単に人減らしの「行革」だけでは下積みの者に不満が残るだけで、これらを課長に抜擢すれば給料も上がり、皆、喜んで仕事をやるので何倍も効率が上がるという発想なのだ。

昭和32(1957)年、田中は39歳で郵政大臣に就任したとき、早くもこうした発想を実現させていた。

電電公社(現在のNTTグループの前身)に、なかなか仕事のできる50歳近い女性職員がいた。

田中は省内人事の際、あえてこの女性を課長の椅子にすわらせたのである。

当時は官公庁における女性の昇進が難しかっただけに、公社内では大きな話題になった。

と同時に、他の女性職員たちが一様にやる気を増した。

ために、すべからく公社職員の志気、効率は大いにアップしたのである。

今日すでに一般化している「キャリア・ウーマン」の生みの親は、じつは、いまから70年近く前の田中だったという話である。