「ひばりは百恵を怖れていた」徳光和夫が85歳で明かす昭和スターたちの知られざる素顔

■『かえり船』と昭和歌謡が生まれた時代

――ところで冒頭の卒論ですが、徳光さんなりの「昭和歌謡」のキモはなんだとお考えですか?
徳光 一言で昭和の名曲と言ってもすごくたくさんあるのですが、戦後に限ってお話すれば、巷間は『リンゴの唄』(並木路子)から始まると言われています。でも、僕は少し違うのではないかと考えました。
なかにし礼さんに伺ったこともあるのですが、戦地からの引揚者が日本が近付くにつれて『リンゴの唄』が聴こえてきたと。自分たちは満蒙の地であれだけ苦労したのに、日本列島はこんなにも明るい歌を歌っているのかという違和感とでも申しましょうか。
じゃあ彼らが戦後、一番勇気付けられた歌は何かというと、昭和21年に流行した田端義夫さんの『かえり船』らしいんですね。♪熱い涙も 故国に着けば♪ という望郷歌です。当時は資料がなかったものですから、僕なりに戦地から帰られた方に話を伺うと、やはり兵隊さんが心を惹かれたのは軍歌よりも望郷歌だったと。例えば昭和15年に発売された『誰か故郷を想わざる』(霧島昇)は戦地で大変歌われたそうです。♪幼馴染みの あの山この川♪ の詞で、母や兄弟を思い出したわけです。

――卒論のタイトルにある「流行歌」という呼び方は、当時はどんな意味合いがあったのでしょう?
徳光 その呼び方自体は、ちょっと蔑んでるというか、下に見ている感じはありました。そこに登場したのが春日八郎の『お富さん』(昭和29年)です。♪粋な黒塀 見越しの松に♪ と、老いも若きも日本中で歌っていました。
歌舞伎という伝統文化を題材にしたことで、民度が上がったと言いますか、こういう流行歌もあるのかと思わせたのが大きかった。それで火が付き、三橋美智也さんが『哀愁列車』『達者でナ』などが大ヒット。こちらも望郷歌であり、彼には民謡というバックボーンがあった。
これは現代の長山洋子さんや西野カナさんにも連綿と受け継がれていて、民謡で鍛えられた喉が違うジャンルでも成功しているわけです。
その後、フランク永井さんの『有楽町で逢いましょう』や松尾和子さん/和田弘とマヒナスターズの『誰よりも君を愛す』が代表するムード歌謡が流行し、エルヴィス・プレスリーの出現でロカビリーが一世を風靡、ビートルズの出現によりグループサウンズ(GS)ブームが到来するわけですね。
かなり端折ってしまいましたが、僕が昭和38年に日本テレビに入り歌番組を担当したときにはGSあり、アイドルのマッチ(近藤真彦)あり、五木ひろしさんの本格演歌ありと、昭和という時代は本当に音楽のジャンルが洪水のように氾濫していました。