「君は同志を救った英雄として迎えられる」死刑囚の手記から垣間見える“三鷹事件”の真実

Wikipediaより
【戦後80年の謎(2)】
日本が連合国軍総司令部(GHQ)の占領下にあった1949年(昭和24年)7月、旧国鉄の東京・三鷹駅構内で無人電車が暴走、6人が命を落とした「三鷹事件」。
この事件では、ただ一人有罪となった竹内景助・元死刑囚が無実を訴えながら獄死したが、その再審請求(死後再審)が今なお申し立てられている事実は意外と知られていない。
本当に事件は竹内の単独犯だったのか。戦後80年、今もって謎に包まれる「国鉄3大ミステリー」の真相と闇に、ジャーナリストの岡本萬尋氏がメスを入れた。(全2回中の第2回。第1回を読む

戦後復興期に発生した「下山事件」「松川事件」「三鷹事件」

「国鉄3大ミステリー」が起きた1949年夏は時代の分水嶺だった。

敗戦から4年、当時の吉田茂内閣は経済立て直しを名目に大量の公務員の人員整理を表明。国鉄だけで10万人近い解雇が計画されていた。

3万7000人の第1次人員整理が通告され労使の緊張が頂点に達していた7月5日、下山定則・国鉄総裁が失踪し翌日、轢死体となって発見された(下山事件)。

同15日の三鷹事件を挟んで、8月には東北本線で線路のボルトが何者かに緩められ列車が脱線転覆する事故(松川事件)が発生。

吉田首相が「共産主義者の扇動」(三鷹事件翌日の声明)と声高に叫ぶ中で、高揚していた左翼・労働運動は失速し大量解雇は断行され、時代は翌’50年の朝鮮戦争に突き進んでいく。

こうした中で起きた三鷹事件を検証すると、見え隠れするのがGHQの影だ。

事件の直前、米軍のジープが現場付近に停まっていたとの目撃証言や、発生直後に被害者の救助に当たろうとして米憲兵(MP)に追い払われたとの住民の供述もある。

いち早く現場に駆け付けたMPや米兵が、事故車両を覗きこんだり銃を構えて周囲を威嚇している写真も残っている。