占領下の東京で無人電車が暴走 国鉄3大ミステリー“三鷹事件”に隠された戦後80年の闇

Wikipediaより
【戦後80年の謎(1)】
日本が連合国軍総司令部(GHQ)の占領下にあった1949年(昭和24年)7月、旧国鉄の東京・三鷹駅構内で無人電車が暴走、6人が命を落とした「三鷹事件」。
この事件では、ただ一人有罪となった竹内景助・元死刑囚が無実を訴えながら獄死したが、その再審請求(死後再審)が今なお申し立てられている事実は意外と知られていない。
本当に事件は竹内の単独犯だったのか。戦後80年、今もって謎に包まれる「国鉄3大ミステリー」の真相と闇に、ジャーナリストの岡本萬尋氏がメスを入れた。(全2回中の第1回)

一度も口頭弁論を開かぬまま死刑が確定

事件が起きたのは’49年7月15日午後9時23分(当時はサマータイム制のため現在の8時23分)。月明かりもない蒸し暑い夜だった。

三鷹駅で7両編成の無人電車が突如動き出し駅構内を暴走して脱線転覆、駅前の交番や商店を破壊し6人が死亡、20人が重軽傷を負った。

逮捕された国労(国鉄労働組合)組合員ら10人が「共同謀議に基づく共同犯行」だとして起訴されたが、東京地裁は’50年8月、「共同謀議は空中楼閣」と批判し9人に無罪、「単独犯行」として竹内に無期懲役を言い渡した。

’51年3月、東京高裁は9人を再び無罪とする一方、竹内に逆転死刑判決。竹内は否認に転じたが最高裁大法廷は55年6月、一度も口頭弁論を開かぬまま上告棄却、死刑が確定した。

15人の裁判官の判断で8対7、わずか1票差での評決。しかも別の冤罪事件への批判に対し「雑音に惑わされるな」と言い放った田中耕太郎裁判長その人が死刑判決支持に回っての1票差だった。

翌’56年に竹内が獄中から起こした再審請求は大きな反響を呼び、支援の輪は自民党・大野伴睦や社会党・浅沼稲次郎ら保守・革新を問わぬ政治家、谷崎潤一郎や徳川無声ら文化人にも広がった。