戦後3番目、69日の超短命内閣だった宇野宗佑の“器用貧乏”な素顔

宇野宗佑(首相官邸HPより)
永田町取材歴50年超の政治評論家・小林吉弥氏が「歴代総理とっておきの話」を初公開。今回は宇野宗佑。

戦後3番目となる超短命内閣

宇野宗佑政権は前任の竹下登がリクルート事件に連座し、退任を余儀なくされるなかで誕生した。

宇野の首相就任は昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御した後、元号が「平成」と改められた年の6月であった。

当時、「ポスト竹下」の有力候補とされていた宮澤喜一、安倍晋太郎(故・安倍晋三元首相の父)は、共にリクルート株の譲渡を受けていたことが明るみに出ており、早々に後継候補から“圏外”となっていた。

次いで、硬骨漢として知られた自民党総務会長の伊東正義が候補に挙がったが、伊東は「政治とカネ」の問題を繰り返す自民党に失望しており、体調が思わしくなかったこともあって固辞。

竹下は「緊急避難」として自らの内閣で外務大臣を務めていた宇野に、白羽の矢を立てたのである。

当時、宇野は中曽根(康弘)派の幹部として、派内で天下取りを目指していた「ミッチー」こと渡辺美智雄と激しいライバル関係にあったが、竹下はより気脈を通じていた宇野を引き上げたのだった。

一方で、渡辺の“芽”を摘むことで、より「院政」の度合いを高められるという思惑もあったとされている。

そのような流れのなか、昭和30年(1955年)の自民党(自由民主党)結党以来、宇野は派閥の領袖が総理・総裁になるという“通例”から、初めて外れたケースになったのである。