「良心の呵貴にさいなまれ、何度もやめようと思った」地下鉄サリン実行犯・林郁夫はなぜ死刑を免れたのか

警察の対応が教団の強固な呪縛を解いた
国家転覆を狙った「地下鉄サリン事件」が発生したのは1995年(平成7年)3月20日のこと。歴史に残る最悪のテロ事件から、実に30年が経つ。退廃的な風潮に彩られた世紀末に、一連の事件はなぜ発生したのだろうか。

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警察は「林先生」と呼んで取り調べ

「地下鉄に乗り込み、持っていた袋を床に置いて、ふとまわりを見渡すと、たくさんの通勤客の姿が目に飛び込んできた。私は医者だ、人の命を救うために仕事をしてきたはずなのに、いまこの袋を傘の先で破ってサリン液を出せば、何人もが一度に死んでしまうと思った。良心の呵貴にさいなまれ、躊躇して何度もやめようと思ったが、教団の命令にはさからえなかった」

この告白は1995年3月20日早朝、都内の地下鉄3線に毒ガスをバラまき、死者13人、重軽傷者6300人余りを出した地下鉄サリン事件の実行犯の1人、林郁夫受刑者(無期懲役で服役中)が取り調べで語った自供の一部と言われている。

オウム真理教“治療省”のトップだった林は、地下鉄サリン事件の実行犯で唯一、死刑を免れた受刑者である。この量刑は林が積み上げてきた“経歴”が大きく作用したようだ。

ベテラン社会部記者が当時の取材メモを振り返る。

「もともと林は東京・品川の開業医の家に生まれ、慶応高校から慶応大医学部に進学。その後は同大付属病院に勤め、アメリカの外科研究所などに留学した経験もある優秀な心臓血管外科医だった。性格も真面目で、当時取材した大学の同級生によれば、『教室の一番前で講義を受けていたほどの堅物』だったらしい。こうした華々しい経歴と人柄、そして良心の呵責を見せる様子から、当初警察は事件に関わる重要人物ではない、教団に騙されたエリートだと思い込んでいた」

当時、警察は林のことを「林先生」と呼び、他の教団逮捕者とは一線を画した丁寧な取り調べを行っていた。だが警察が林を重要人物ではないと判断した理由は、これだけではない。