オウム真理教に「美人信者」が多かったワケ 大量入信&出家を支えた“大師マニュアル”の呪縛

教祖・麻原彰晃の“命令”は絶大だった
20世紀が終わろうとしていた1995年3月20日に「地下鉄サリン事件」が発生した。オウム真理教が起こした凶悪事件は数多いが、地下鉄サリン事件は社会の転覆を狙った、最悪のテロ事件だったと言える。

禍々しい事件から30年が過ぎようとしている。退廃的な風潮に彩られた世紀末に、一連の事件はなぜ起こったのだろうか。

美人信者の出家を促す項目

地下鉄サリン事件が起きたのは3月20日。その2日後に上九一色村(現・富士河口湖町)の教団本部をはじめとする全国25の関連施設に警察の強制捜査のメスが入った。

テレビや新聞はそれ以前から教団の動向を追っており、報道の中で、たびたび世間の注目を集めてきたのが美人信者たちの存在だ。

当時、省庁制を敷いていたオウム真理教には、「正大師」と呼ばれる大臣級から末端の出家信者に至るまで、数多くの美人信者らが在籍した。ただ、その美女率の高さは、実は周到に操作されたものだった。

取材にあたっていた社会部記者がこう振り返る。

「オウム真理教は上九一色村への強制捜査を受ける以前の1990年、土地利用計画に違反した疑いで教団施設が1度強制捜査を受けた。この際、事前に警察の動きを察知した教団側は、さまざまな証拠品を焼却したといわれている。その中の一つが、信者獲得と出家を呼びかけるマニュアルで、美人信者たちの出家を優先的に促す項目があったといわれている」

マニュアルは一部で“大師マニュアル”とも呼ばれていたらしい。その理由は教団の指導的立場にある正大師に内容を徹底させ、信者の勧誘の強化を図ることが狙いだったからだ。

だが、美人信者らを優先的に出家させようとした目的はそれだけではなかった。