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中森明菜を蝕んだ「禁断の恋」近藤真彦の自宅で“アームカット”〜昭和・平成「芸能暗黒史」その3

中森明菜
中森明菜 (C)週刊実話Web

〝禁断の恋〟と聞いて、芸能界で真っ先に思い浮かぶのは歌姫・中森明菜の「自殺未遂騒動」だろう。

1982年に『スローモーション』でデビューするや一躍スターダムにのし上がった明菜は、85年に『ミ・アモーレ』、86年に『DESIRE』など、次々に話題曲をリリース。相次いでレコード大賞も受賞するなど、瞬く間にトップスターの座に定着した。

そんなきらびやかな芸能生活を送る中、「デビュー前から憧れていた」というマッチこと近藤真彦と、映画『愛・旅立ち』(85年公開)での共演がきっかけで交際を開始したのだ。

しかし、結婚願望を募らせる明菜に対し、近藤は当時の〝ジャニーズ事務所の大黒柱〟という立場で、本人もまだ「結婚で身を固める」という意向がなかったことから、2人の間にすれ違いが生じた。徐々に近藤の気持ちが明菜から離れていく中、87年のレコード大賞で、3連覇がかかる明菜に対して、近藤の『愚か者』がストップをかけるという皮肉な事態も発生し、離別を後押しした。

この年のレコード大賞をめぐっては、近藤の母の遺骨が神奈川県の墓地から盗まれるという事件に発展。近藤のもとには「遺骨と引き換えにレコード大賞を辞退しろ」という内容の脅迫状まで届いていた。この事件は現在も未解決であり、遺骨もまだ見つかっていないが、犯人は明菜の熱狂的なファンで、彼女の3連覇を確実なものにするために犯行に及んだのではないかと見る向きもある。こうした不幸な出来事が、2人を引き離した一因になった可能性も否定できないだろう。

近藤真彦と松田聖子のNY密会

その後、両者の仲を決定的に悪化させることになった近藤の「密会問題」が、89年2月に発覚する。この時、近藤はハワイで明菜とデートをした後、ニューヨークで松田聖子と密会していたと週刊誌が報じたのだ。

「当時の明菜は、近藤と喧嘩をするたびに自殺未遂を起こしていたとされ、コンサートをドタキャンするなど精神状態が悪化していました」(芸能記者)

その結果、同年7月11日には、六本木にあった近藤のマンションで、明菜が自ら左ひじの内側を深く切り裂く、「自殺未遂」騒動を引き起こしたのだ。

「手首を切るリストカットは昔からありましたが、〝アームカット〟は前代未聞。帰宅した近藤に発見された明菜は、病院に搬送されて一命を取り留めたのです」(同・記者)

その年の大みそかに近藤とともに開いた会見では、明菜が騒動を起こしたことを詫びる傍らで、近藤は明確に明菜との結婚を否定。これで2人の破局は決定的なものとなった。諸説あるが、このときに会見場となったホテル側が「結婚会見」だと勘違いし、金屏風を用意したとされる。この会見は、〝金屏風会見〟として芸能史に刻まれることとなった。

これを機に、明菜は芸能活動こそ継続していたものの、所属事務所とのトラブルや体調不良による長期休養などに見舞われ、いまだ全盛期の輝きを取り戻せてはいない。

一方の近藤は、94年に一般女性と結婚。07年には一児をもうけたが、2020年に不倫が発覚。21年4月にはジャニーズ事務所を退所し、収入が激減したことで、新婚当時に妻と暮らした一軒家も売却したと報じられている。

対照的に、今も独身を貫いている明菜は、2014年の『紅白歌合戦』に出場して話題を呼んだが、再び沈黙。仲のよかった家族とも疎遠になり、心配する周囲からの呼びかけもシャットアウトしているという。

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