「落語家になるために生まれてきた男」立川談志の『芝浜』に見た“不世出の天才”の凄み【怪人/快人伝 第6回】

立川談志 (C)週刊実話WEB

永田町取材歴50年超の政治評論家・小林吉弥氏が実際に会った傑物たちの知られざる素顔を初公開。今回は立川談志(下)をお届けする。

蕎麦一杯にも表れた“談志流”

立川談志のエピソードに、弟子など親しい者と蕎麦屋に入った際、談志は決まってもりかかけを注文し、他の者が天ぷらそばなど“タネもの”を注文すると、露骨にイヤな顔をするということがあった。これについて、談志に雑談のなかで触れてみたことがある。談志はいささか真顔になって、こう答えたものだった。

「落語家だろ。タネものなんぞ食っちゃいけない。粋じゃないね。ましてや、俺がかけそばを注文しているのに、ふつうならタネものなんか注文できるわけはないんだ。まあ、こういうヤツに真打は無理だね」

しかし、私は談志とのそれまでの会話から、こうした言葉の一方で、子ども心に戦時中の耐乏生活をくぐり抜けてきたなか、譲れない絶対の感性が言わせているのではとみていた。

戦争がまた、談志という異色にして稀有な天才落語家を生み出した。そうとも思えるのである。

さて、私が立川談志という落語家に改めて目を開かされたのは、談志が事実上、参院議員をクビになって1年後くらいだったと記憶しているので、昭和51(1976)年ごろのことである。

私の東京都新宿区神楽坂の事務所のそばに毘沙門天(善國寺)があり、いまもやっているが、当時からその地下広間で定期的に落語会が行われていた。偶然、その日、談志が出るということで覗いてみたのである。

それまで談志の「文七元結」「たがや」「明烏」「らくだ」「居残り佐平次」などを聴き、そのたびに「うまいなぁ」とは思っていたが、この日、初めて聴いた「芝浜」によって、従来の認識を一変させられた。鳥肌が立つという言葉があるが、まさにそれだったのだ。ガツンとやられた。

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