「師匠には独特の清潔感があった」立川談志が柳家小さんに惚れ込み、やがて袂を分かった理由【怪人/快人伝 第5回】

昭和52年5月、東宝演芸場の高座で政界引退の記者会見をする立川談志。中央は柳家小さん、右端は三遊亭圓生

真打ち制度に叩きつけた反旗

しかし、やがて真打ち昇進の在り方などを巡って、小さんが会長を務める落語協会を離脱し、談志は自ら「落語立川流」を立ち上げることになる。

「言うなら、芸も無いのに師匠のバックアップで真打ちになれる矛盾に、抵抗しての立ち上げだった。協会を離れれば、もはや寄席には出られない。覚悟は決めたね。師匠(小さん)は出戻りから立川流の立ち上げも、淡々として受け入れてくれた」

真打ち昇進を巡っての立川流立ち上げについては、そもそも名人とされた五代目古今亭志ん生の息子・古今亭志ん朝が、なんと36人抜きで談志より1年早く真打ちに昇進したことが、自負の強い談志には面白くなかったようだった。

志ん朝は談志より5年遅れて落語界に入ったが、父の志ん生に加え、兄に金原亭馬生もおり、志ん朝にはもとより芸はあるものの、こうした背景が“出世”に生きたとの見方もあった。

要するに、談志としては「古い社会」への憤懣、抵抗があったのである。

一方、立川流の立ち上げで、談志は真打ちへの昇進に厳しい基準を設けた。二つ目までに歌舞音曲の基礎を覚えたうえで、100席の落語を演じる技量ありと立川流家元の談志が認めれば、とくに修業期間を定めずとも真打ち昇進を認めるとしたのである。

ハードルは、かなり高かった。しかし、こうしたなかから、志の輔、談春、志らくなど、のちの落語界を支える人気者が輩出されることになった。

談志とは、のちに東京・練馬区の自宅でも、インタビューの時間を取ってもらった思い出がある。

この練馬の自宅は没後にリフォームされているが、木造の2階建てであった。かつて、談志は参院選に無所属で出馬、当選後、自民党入りして大平(正芳)派入りしたが、その大平から融資などの手助けを受けて建てたものといわれていた。

家のなかを見せてもらったが、2階は3つ、4つの小部屋があり、談志は「弟子が住み込んでいる」と言っていた。その後、世に出た先の弟子たちが、当時そこにいたのかは、残念ながら確証がない。2階の角部屋の棚には、落語全集的なものからエロビデオの類いまで、ぎっしりとビデオ・カセットが並んでいた。