「師匠には独特の清潔感があった」立川談志が柳家小さんに惚れ込み、やがて袂を分かった理由【怪人/快人伝 第5回】

立川談志 (C)週刊実話WEB

永田町取材歴50年超の政治評論家・小林吉弥氏が実際に会った傑物たちの知られざる素顔を初公開。今回は立川談志(中)をお届けする。

寄席通いの少年が落語家になるまで

前号に続き銀座の高級クラブ「エスポワール」の、ただし喧噪が行き交うフロアではなく、その端にあるホステスも客もいないカウンター席における立川談志インタビューの回想である。

私が「なぜ、師匠に五代目(柳家)小さんを選んだのですか」と問うと、談志は高座でのメリハリの利いた声とは裏腹に、半ば苦笑気味に小声で答えたものであった。

「他の名人、上手の噺をずいぶん見たり聴いたりしたけど、師匠には独特の清潔感があったね。まず、そこに惹かれた。それにしても師匠には事あるたびに、よく怒鳴られたもんだ」

昭和11(1936)年、東京で生まれた談志は、小学4年生で疎開先の埼玉県深谷市で終戦を迎えた。深谷市では何度か空襲を受け、それが子どもの感性をゆさぶったと思われる。同時に、父親との縁が薄く、母親のもとで育ったことで、こうした感性がより磨かれたとも思われる。

そんな感性豊かな子どもが落語に目醒めたのは、終戦翌年の小学5年生のときであった。親戚に連れていかれた浅草松竹演芸場で、落語の面白さの直撃を受けたのである。中学に入っても“病膏肓”で寄席がよい、高校は入ったもののたった1カ月で退学、小さんの門を叩いたということだった。

入門を許されたのは昭和27(1952)年、16歳のときであった。時に、小さんは小きん、小三治を経て、談志が入門する2年前に小さんの名跡を襲名していた。入門を許された談志は、小よしの前座名を与えられた。

インタビューの続きである。なにせ50年近く前で詳細は覚えていないが、なぜ小さんの門を叩いたのかについて、こう続けたのが妙に印象に残っている。

「噺の間の取り方や、ひと呼吸置く間の抜き方にも参ったね。『時そば』は“ああ、そばが食いたい”と本当に思ったし、『強情灸』や『らくだ』の、なんとも緩い間の抜き方は絶品だった。他の師匠の門を叩く気持ちは、まったくなかった」

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