「秀長を失い豊臣家は崩壊した」 歴史家・加来耕三が語る令和に通じる"最強補佐役"の流儀

「あぶれ者集団」を束ねた秀長の福利厚生術

おそらく秀長は、半信半疑だったと思います。しかし、すでに織田信長は「楽市楽座」で商売を認め、集まったお金で傭兵部隊を雇用していました。

そして、この傭兵部隊を任されたのが秀吉です。出生もはっきりしない秀吉には、先祖代々の家来はなく、お金で雇われた連中が、その配下となりました。

いうなれば、当時の秀吉隊はあぶれ者の集団です。

秀長はそれのナンバーツーをさせられた。では、どうやって秀長が、あぶれ者たちを抑えたのかというと、私は福利厚生だったと思います。足軽たちが病気やケガをしたときの看病、彼らの冠婚葬祭の手助けなど、これらを受け持ったのです。また、そうすることで個人情報が摑めます。

秀長は温厚な人柄と調整力で、家臣団を巧みに統制しながら、秀吉を支えていきました。そして、家来が増えてくる。秀吉がなぜ天下を取れたのかといえば、合戦の常識を変えたからです。それまでの「やあやあ、われこそは」という戦いではなく、調略や土木建築が勝敗を分ける、重要な要素になっていきました。

一夜城・水攻め 秀長が支えた奇想天外な戦略

最初の圧巻は墨俣の“一夜城”です。川の合流点である墨俣に、橋頭堡となる城を築くという奇想天外な作戦で、信長の重臣の佐久間信盛や柴田勝家も失敗しました。ところが、秀吉はあらかじめ切った木材を川に流して、それを陸揚げして短期間で組み立てた。見事に成功して、出世の足がかりにしたわけです。

前半最後の見せ場は、備中高松城の水攻めです。これには土木に加えて、計算能力が必要になってくる。水攻めの普請には土俵が何俵いるか、どれだけの水で城の何層目まで埋まるか、事前に計算しなくてはならない。これらを担当したのが秀長の家臣である藤堂高虎で、後年には“築城の名人”として名を馳せます。

東奔西走する兄に対して、秀長はもっぱら後方にありました。担当させられた山陰地方の平定においては、因幡(現・鳥取県東部)、伯耆(現・鳥取県中/西部)などに多少の足跡は認められるものの、秀長の武将としての器量は見えにくい。しかしながら、秀吉の中国大返しにも貢献しており、ただの凡将ではありません。