「秀長を失い豊臣家は崩壊した」 歴史家・加来耕三が語る令和に通じる"最強補佐役"の流儀

加来耕三氏(C)週刊実話Web

秀長亡き後に政権が崩壊 「制動機」の喪失

われわれ歴史家にとって、一番手ごわいのは、自分の足跡を消すように生きて、静かに去っていった人物です。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公である豊臣秀長は、まさにその型といえるでしょう。

豊臣家というのは出発が農民ですから、秀長の前半生がどのようなものであったか、調べようにもあまりに史料が少ない。そこで、秀長が亡くなってから豊臣政権に何が起きたのか、そこに着目すると、いろいろなことが見えてきます。

秀長は、秀吉が天下統一した翌年の天正19(1591)年正月22日、大和郡山城にて亡くなります。享年52でしたが、ここから豊臣政権は迷走を始めます。

翌月に千利休が切腹を命じられ、その年のうちに朝鮮出兵が決定。秀長を失ったがために、豊臣政権は急速に崩壊への道をたどっていったともいえます。

秀吉が加速装置とすれば、秀長は制動機。そういった意味で、兄弟はうまく作用していました。秀長の持ち味は何より出しゃばることを嫌い、常に一歩引いて、秀吉の影に徹するよう心がけたことです。

縁の下の力持ちの分限を守り、自らの職責を消すようにして、この世を去っていきました。知られざる英雄といってよいでしょう。

農民の弟をどう口説いたか 秀吉の説得術

私は秀長について書くにあたり、一つだけ大きな疑問がありました。どのようにして秀吉は、秀長を説得して家来にしたのか、それがよく解りませんでした。

秀長は秀吉より3歳年下ですが、兄が放浪の旅に出ていたので、当主として農業に勤しんでいました。当時の秀長には、武家奉公よりも田畑をいかに広げていくかが重大事です。大河ドラマでは兄弟で剣術をしていましたが、農民ですからおそらく槍の持ち方も知らなかったでしょう。

私は、秀吉がこう口説いたのだと思います。

「わしのこれまでの功名は、ことごとく戦場働きの兜首ではない」

つまり、敵の首を取らなくても、出世できるのが織田家であると、そういって秀長を説得したのです。

私は経営学における「競争のない未開拓市場」の考え方が頭に浮かびました。これは「既存市場」を離れ、独自性の高い市場を開拓する戦略です。

従来の武士は戦場で敵の首を取り、その手柄で出世してきました。しかし、違うやり方がある。単なる戦場働きだけではなく、調略で敵を寝返らせ、情報を駆使して敵に勝つ。これを秀吉は、秀長に説いたのではないでしょうか。

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