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作家・山田風太郎“雀狂小説の第一人者”~灘麻太郎『昭和麻雀群像伝』

(画像)polkadot_photo / shutterstock

山田風太郎の異色作に、1000人を超す古今東西の著名人たちの死に際をつづった『人間臨終図巻』がある。

その中で、A級戦犯として悪名高い松岡洋右元外相について《松岡の外交は、麻雀で相手3人(米独ソ)の手を全然見ず、自分の手ばかり見て勝負しているようなものであった。彼は役満を志して、役満を打ち込んだ》と、麻雀の打法に例えて評している。

風太郎は東京医科大学在学中、旧『宝石』誌主催の第1回短編懸賞に応募し、ミステリー作品『達磨峠の事件』が入選(1947年1月号に掲載)したことで文壇に登場した。麻雀を覚えたのは意外に遅く、30代に入ってからで、当時の模様を色川武大は『別冊新評 山田風太郎の世界』で、こう書いている。

《やりだすと長くなって徹夜になる。巻紙におびただしい線をひいて、20チャンでも30チャンでも続けるのである。皆おぼえたてで、あぶない手つきでやっている。立派な作家が初心者風で、かけだし編集者の私が摸牌でやっては失礼である。

で、私も初心者風の手つきを装ってやった。(中略)

「手つきは下手だし、あんまりアガらないけど、ときどきすごい手をアガるねえ、君は」

それで、〝妖剣〟といわれた》(『三軒茶屋のころ』より)

その頃の風太郎は、色川がかつて〝雀ゴロ〟であった事実をまったく知らない。色川が「阿佐田哲也」のペンネームで世に出るのは、まだ10年以上も先の話である。

それにしても怖いもの知らずとは、このことだろう。色川が「あんまりアガらない」のは、《普通の手でアガろうと思えばいくらでもアガれる。でも、一人でアガってしまっては、他の人が面白くない。だから私も徹底的にガメッて、アガっていてもアガらず、手を大きくしていった》からに他ならない。

覚える気がなくすべて他人まかせ

若い時分の風太郎は体力にものをいわせて、麻雀漬けの日々を送っていた。旅行に出かけても外出を一切せず、1週間ぶっ通しで打ち続けたり、正月をはさんで10日間、2年越しの大麻雀大会に興じたり、スタミナ面では超一流であった。ところが、点数の数え方が分からなかった。というより、覚える気がなく、すべて他人まかせ。したがって、負けるほうが圧倒的に多かった。

そのことを立証するのが、かつて文化人たちに人気があった角川書店主催の『新春文壇麻雀大会』で、3年連続ブービー賞に輝くという怪記録であろうか。雀豪とはほど遠く、単なる〝雀狂〟に徹しきったところが、大人たる風太郎にふさわしい気がする。

風太郎の麻雀の師匠は、公私ともに深い付き合いのあった推理作家の高木彬光で、エッセイ集『いまわの際に言うべき一大事なし。』に、ビギナー時代の逸話が語られている。

《高木彬光が僕にマージャンを教えたんだけれども、9時ごろになったら、「僕は原稿の用事があるから、じゃ、サヨナラ」とかいって、途中で帰っちゃうんです。あと困っちゃう。(中略)で、うちのが寝ているのを叩き起こす。その頃は、赤ん坊が生まれて間もないもんだから、赤ん坊が背中で泣き出す(笑)。うちのが背中の赤ん坊を揺すりながら麻雀をやる(笑)》

風太郎の忍法帖シリーズの中に、麻雀の摸牌をモチーフにした異色の短編作品がある。タイトルはズバリ『摸牌試合』だ。

徳川家康の命を受けた女忍者「くノ一」が、長男、秀康の股間に彫られた印の秘密を探るため、彼の男根に指をなぞらせる。ちょうど麻雀の摸牌よろしく、くノ一の細い指先が上から下へ、下から上へ…。

麻雀が奇想天外な発想法に活かされていた

私の場合、風太郎といえばすぐに忍法帖シリーズを連想するが、そのきっかけとなったのは、中国四大奇書の一つ『金瓶梅』を再構成した『妖異金瓶梅』であった。その後、風太郎は58年に『甲賀忍法帖』を発表し、忍法帖シリーズで流行作家となる。これらは安土桃山時代から江戸時代を舞台として、想像の限りを尽くした忍法を駆使する忍者たちの死闘を描いた作品群である。

忍法帖シリーズは掲載誌を問わず、多数の長編、短編が執筆されたが、その中には細部の設定を詰めずに連載を開始したものも多かった。特に柳生十兵衛3部作の第1作『柳生忍法帖』は、当初『尼寺五十万石』の題名で連載され、十兵衛が登場する予定ではなかったが、単行本化の際に改題された。

また、第2作となる『魔界転生』は、どんな忍法が登場しても大丈夫なように、最初から適当な題名『おぼろ忍法帖』をつけたものの、結局、内容にそぐわなくなった。そのため、角川文庫収録時に『忍法魔界転生』と改題し、81年の映画化の際に『魔界転生』とされている。なお、映画は監督・ 深作欣二、主演・千葉真一、沢田研二によって製作され、観客動員数200万人、配給収入10億5000万円を記録している。

いずれにしても風太郎は、麻雀が好きではあったが勝てなかった。その理由は、どうしたらアガりに結びつくかだけでなく、この手は、どう持っていったら面白い〝作品〟に仕上げられるか、そんなことを考えながら打っていたからであろう。

麻雀におけるさまざまな経験が、奇想天外な発想法に活かされていたのではと思う。

(文中敬称略)

山田風太郎(やまだ・ふうたろう)
1922(大正11)年1月4日生まれ~2001(平成13)年7月28日没。戦後日本を代表する娯楽小説家の一人で、伝奇小説、推理小説、時代小説の3分野で名を馳せた。58年に発表した『甲賀忍法帖』で忍法帖ブームを巻き起こす。

灘麻太郎(なだ・あさたろう)
北海道札幌市出身。大学卒業後、北海道を皮切りに南は沖縄まで、7年間にわたり全国各地を麻雀放浪。その鋭い打ち筋から「カミソリ灘」の異名を持つ。第1期プロ名人位、第2期雀聖位をはじめ数々のタイトルを獲得。日本プロ麻雀連盟名誉会長。

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