南海黄金期V戦士、広瀬叔功さん死去「反野村スパイ野球」を貫いた反骨精神

日本プロ野球名球会オフィシャルサイトより
南海ホークス(現ソフトバンクホークス)の中心打者で、監督も務めた広瀬叔功さんが心不全のため死去した。広瀬さんとプライベートでも交流のあった元スポニチ担当記者・吉見健明氏が逸話を明かす。

「大阪の北新地や難波をよく飲み歩いた」

福岡ソフトバンクホークスの5年ぶりの日本一で幕を閉じた2025年のプロ野球。

そんなホークスのレジェンド・広瀬叔功さんが11月2日に亡くなったことを友人からの連絡で知った。89歳だった。

広瀬は1960年代に南海ホークスの黄金時代を築いた名選手。俊足と天才的な走塁で5年連続盗塁王や首位打者を獲得するなど、走攻守にわたって「プロ野球のスピード感を変えた革命者」と言われた。

現役引退後は3年間監督を務めたが、こちらは少々気の毒だった。というのも、ちょうど広瀬が引退を決めたタイミングで、球団の顔でもあった兼任監督の野村克也が“公私混同問題”で監督を解任されるという騒動が勃発。

広瀬は球団から頼み込まれ、渋々監督就任を引き受けることになったからだ。

筆者が親しく付き合うようになったのは監督に就任してからのことで、大阪の北新地や難波をよく飲み歩いた。その頃のことは今でも鮮明に覚えている。

現役時代から酒豪として有名で、チームメートの野村、杉浦忠とは「南海の3悪人」と呼ばれるほどよく一緒に飲み歩いていた。朝まで飲み明かした翌日のデーゲームにも平気な顔で出場していた。

当時の豪快さを示すこんなエピソードがある。広瀬はある試合で二日酔いのままヒットを打って出塁。すぐ盗塁を決めたのだが、二塁にヘッドスライディングした瞬間、思わずもどしてしまった。

ところが、広瀬は少しも慌てずベースに立つと、足元の土をならすフリをして自分の吐物の上に土を被せ、素知らぬふりでプレーを続けた。

この時代のプロ野球選手は現代に比べれば驚くほど荒っぽかったが、やることはやって圧倒的な結果で周囲を黙らせた。広瀬もそんな選手の1人だった。

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