『豊臣兄弟!』では描かれない!? 秀吉・秀長の恐ろしすぎる暗黒史

豊臣秀吉
年明けからNHK大河ドラマで豊臣秀吉の弟・秀長の生きざまを描く『豊臣兄弟!』が放送されるが、群雄割拠の武将が覇権を争った戦国時代は、スリルと勇ましい武勇伝の宝庫。そのためこの時代は人気が絶えないが、戦乱と殺戮に明け暮れた時代だけにテレビでは報じにくいタブーも多い。

ここでは織田信長の後継者として天下を手中に収めた秀吉と、豊臣政権の実務を取り仕切り、兄をサポートし続けた秀長が関与した空恐ろしい騒動・事件を3つご紹介しよう。

関白・秀次と妻子39人の公開処刑

秀吉の甥にして後継者であった豊臣秀次だが、文禄2年(1593年)に秀頼が誕生すると、立場が揺らぐ。文禄4年(1595年)、「謀反企図」などの嫌疑をかけられ、同年夏に聚楽第を明け渡して高野山に蟄居の身に。その後、自害した。

だが、惨劇はこれで終わらなかった。秀次の遺骸は京都に運ばれて三条河原にさらされ、続いて京都に残った妻や妾、侍女、近臣から、乳飲み子を含む幼い子供まで、39人が同じ三条河原で一斉に磔のうえ、斬首という見せしめの処刑を受けた。

聚楽第は破却、秀次家の所領や屋敷は没収され、家臣団は改易・流転と関係者には連座が広がった。名跡の抹消や肖像の破却など、秀次の“存在の消去”が徹底され、供養をすることまで制限されたと伝わる。

その凄惨な公開処刑と徹底的な連座に、しばらくの間、京都の町は重い沈黙に包まれた。為政者の気分ひとつで血縁すらも一夜にして翻るという恐怖を、人々は骨身に刻んだのである。