『豊臣兄弟!』では描かれない!? 秀吉・秀長の恐ろしすぎる暗黒史

過酷な兵糧攻め「鳥取城の渇え殺し」

天正9年(1581年)、秀吉が毛利勢の吉川経家の籠る城を兵糧攻めで屈服させた鳥取城の包囲戦は、過去に例のない過酷なものであった。

秀吉はまず山陰一帯の米を法外な高値で買い占め、付近2000人以上の農民を城に追いやった。

海や河川の道を塞いで毛利勢の支援を排除し、周辺の村々の食糧を徹底的に枯らしてから包囲を開始。そもそも20日程度の兵糧しかなかった城内の食糧はすぐに枯渇し、馬や犬猫が食われた。

飢えた城内の者たちは続いて革具・鞍・草履を煮て食うようになり、畳の藁や木皮まで剥いで口にしたという。後世の軍記には、餓死者が日々積み上がり、死体の臭気が堀を覆い、城内で死体の肉を争ったとする惨話さえ残る。

打つ手がなくなった経家は、将兵の助命と引き換えに自刃を受け入れ、城は開城されたが、人心をじわじわと絞め殺すかのような包囲戦は、秀吉の冷酷な性格がものを言う戦術であった。

これらは秀吉の武勇伝や乱心ぶりとしても伝えられるが、“豊臣政権の大黒柱“とも呼ばれた秀長がまったく介入していなかったとは考えにくい。

歴史家の間でも「あり得ないほど仲が良かった」と伝えられる2人は、空恐ろしい所業を共謀して行っていた可能性が否めないのだ。

週刊実話増刊『禁断の戦国史』(小社刊)より抜粋