植民地支配へ「心からのお詫び」を明記 内閣支持率20%から40%に上昇させた小渕恵三の手腕

政治基盤を固め支持率は40%に

一方、これは外交でも同様で、次々と大胆な決断力を発揮した。例えば、韓国とは時の金大中大統領を招いて「日韓共同宣言」を発表。そのなかで戦後50年の「村山談話」を踏まえ、改めて過去の植民地支配への「痛切な反省」「心からのお詫び」を明記した。

一方で、しっかりと金大統領から、今後は「歴史問題」を蒸し返さないとの約束を取りつけている。

こうした政権運営のなかで、小沢一郎率いる自由党を連立に組み入れて、まず「自自」連立政権をつくり、その後、公明党の閣外協力を得て事実上の「自自公」連立政権を成立させている。

最大派閥・小渕派の結束ぶりも相まって政権基盤が強まり、内閣支持率も政権発足時の20%から40%まで上昇していった。

しかし、こうした政権の上昇機運のなか、小渕は平成11年(1999年)秋の総裁選で「再選」を果たしたが、この直後から晴天はにわかにかき曇るのだった。

小渕の「再選」後、自由党の小沢から改めての連立参加に際し、議員定数の削減を含めた政治改革、政府委員制度の廃止などの注文がつけられた。しかし、これに総裁選で戦った加藤紘一、山崎拓らが反対の声を強めたことが発端だった。

ここで小渕は、したたかさを存分に見せつけた。小沢自由党との連立に断固反対する加藤、山崎の両派に対し、すぐさま“報復”に出たのである。

両派からの閣僚・党役員の推薦名簿をことごとく無視、自ら一本釣りによる改造人事を断行。自民党内からも「あの小渕は、ここまで神経が太かったのか」という驚きの声が上がった。

しかし、一方で小沢による50名の衆院議員定数削減の実行要請は苛烈を極めた。

自民党内では加藤、山崎両派以外からも、小沢自由党のあまりの要求に反発する声が高まり、小渕は窮地に追い込まれた。

その結果、小渕は50名ではなく20名の議員定数削減を決断したが、小沢は強硬な姿勢を崩さず、ついには連立解消の可能性をチラつかせ始めたのである。