「キャンディーズは青春というより生涯事業」伊藤蘭ファン歴50年“全ラン蓮代表”石黒謙吾の生き様

「ネットがない時代の分、いろんな人との出会いがあった」

高校の卒業アルバムで「蘭命!」を誓った。
それから2年間で全国100公演以上。資金を得るためにあらゆるバイトをやった。

当時は昼夜公演もあったからチケット代は倍。宿泊するホテルが分かって、高くても同じホテルに宿泊したことも。

その分、全国への交通費はキセル乗車。宿泊は野宿だったり、6000円のシングルにファン6人で泊まりながら、紙テープを毎回100本用意して、全国のキャンディーズコンサートに随行した。

「当時は全キャン連北陸支部の末端の末端。金沢工大の人が支部長をやってたように多くが大学生で、高校生はほとんどいなかったからね。
新譜が出ると金沢市観光会館の集会室に集まって、中央(東京)から回ってきた歌詞のガリ版を見ながら、先輩たちとコールや手拍子の練習なんかをしてね。
そうやって統一された応援体制ができ上がっていった。今のアイドルファンの源流みたいなものだろうね。
ネットがない時代の分、いろんな人との出会いがあったよ。
初めて東京に行った’76年10月11日、蔵前Vol.2のコンサート。その前日にランの実家をラジオで聞いた西荻窪という地名と、雑誌の小さな写真にあった玄関の瓶だけを手がかりに一人で朝から探した。
新潟ではバックバンドのMMPの人たちに声をかけてもらってホテルの部屋で飲んだこともあったな。本当にあの2年間は人生でも濃密な時間だったよね」

キャンディーズ、そして石黒の追っ掛け人生も絶頂期に差し掛かった’77年7月17日。石黒少年の世界がひっくり返る事態が起こる。