阪神の「ミスター」は名誉であり呪いだった 2代目ミスタータイガース村山実の実像

村山は話題作りも“一流”だった

阪神の元同僚で抜群のコントロールから“投げる精密機械”の異名をとった小山正明が筆者にこう語ってくれたことがある。

「『ムラ、おまえな、あまりにも上半身を酷使した使い方をしている。もっと力を抜け』とアドバイスしたが、聞かなかった。案の定、肘を壊したが、ムラはそれを試合前に記者に話すんだ。
そうすることで、負ければ『村山涙の敗退』、勝てば『肘痛をこらえて完投』とスポーツ紙の1面を飾ることになる。これが読者に受けてファンは激増した。ムラは記者を使ってこういうドラマを演じるのが本当に一流だった」

断っておくが、この言葉は村山を非難するものではない。チームのために痛みをこらえて投げ続けたことは事実で、村山はこうすることでファンを楽しませながら自分を追い込み鼓舞していたのだ。

事実、村山は普段から常人には想像できない努力を重ねていた。

たとえば、村山の決め球のフォークボールだが、もともと指が短かったためボールを挟むことができず、フォークを習得するために四六時中、それこそ寝ている間ですら指の間にボールを挟んでいた。一時は人差し指と中指の谷間を切ろうと本気で考えたこともあったほどだ。

晩年は肘の激痛に耐え、泥まみれになりながらもマウンドに立ち続けたその姿はまさに悲劇のヒーローだった。ミスタータイガースの名に恥じない、負けず嫌いと陰の努力。それが村山実という男だった。

異常な負けず嫌いはプロで生き抜くための資質であり、プライドの高さはその裏返しだった。1969年、ドラフトで大学野球のスターだった田淵幸一が阪神に入団し、高知・安芸での春季キャンプでは関西のスポーツ紙5紙が連日、1面で田淵を取り上げた。

村山はそんな状況に不満を隠そうとしなかった。すでに誰もが認める阪神の大エースはマスコミの前で「プロでの実績がない奴を、なんでこんな扱いをするんだ」と言い放ったのだ。

筆者も記者としてその場に居合わせていた。村山の山より高いプライドが傷ついているのが肌で感じられた。ミスタータイガースの看板を背負ってチームを引っ張ってきた男が、何の実績もない新人に対抗心をむき出しにしていた。