自民党を38年ぶりに野に突き落とした“功労者”細川護熙政権と何だったのか?

細川護熙(首相官邸HPより)
永田町取材歴50年超の政治評論家・小林吉弥氏が「歴代総理とっておきの話」を初公開。今回は細川護熙(上)をお届けする。

細川護熙の代名詞は「突然」「気まぐれ」

細川護熙は名門の出で、戦後総理のなかでも「毛並み」の良さは群を抜く。

昭和13年(1938年)1月、細川は東京都で生まれた。細川家は肥後54万石、熊本藩主の直系子孫であり、護熙は18代当主にあたる。

幼少の頃は常にしつけ役の「おばばさま」がいて、周囲は護熙を「若様、若様」と腫れ物にさわるような扱いぶりであった。

また、護熙の母方の祖父は、華族にして戦前・戦中に内閣総理大臣を務めた近衛文麿で、護熙の父・護貞は、その近衛の秘書官を務めていた。

さて、細川は神奈川県の進学校でもある栄光学園中学に入ったが、高校は学習院に移った。

近衛にならって京都大学を受験したが失敗、上智大学法学部に入学。卒業後は朝日新聞社に記者として入社し、鹿児島支局が振り出しであった。

鹿児島支局のあと、東京本社の通信部地方課社会部に転じ、都合5年半の記者生活を送った。

記者時代は「東大紛争」「金嬉老事件」などを取材したが、後者では籠城する金に果敢にも単独インタビューを試みたが、逆にションベンをひっかけられて追い返されたというエピソードがある。

昭和43年(1968年)に朝日新聞社を退職すると、突如として翌年の衆院選に出馬した。しかし、落選の憂き目に遭い、2年後の参院選にチャレンジして初当選を飾った。

衆院選では、時の自民党幹事長だった田中角栄が密かに細川を支援し、4万票近くを集めたものの、惜しくも次点で落選したという話がある。

ところが、この参院選あたりから細川の“持ち味”は全開となるのだった。

のちに細川の“代名詞”ともなった「突然」の行動や、あるいは「気まぐれ」的な展開が次々と繰り出されたのである。「三日坊主」のあだ名さえあった。