自民党を38年ぶりに野に突き落とした“功労者”細川護熙政権と何だったのか?

1年生議員の首相就任は吉田茂以来

まずは、初当選を飾った参院議員のイスをさっさと捨てると、先祖代々の地である熊本に戻って県知事選に出馬して、国会議員から県知事への転身を果たした。当時、「細川熊本県知事」は全国で最年少であった。

しかし、知事として2期8年を務めた細川は、「3選確実」とされながらも出馬を辞退してしまう。

当時の細川の弁によると「権不十年」、すなわち同じ人間が10年以上も権力の座にあるべきではないとの考えで、それを実践したということであった。

ところが、ここで政治の道にピリオドを打つのかと思いきや、なんと、月刊誌上を借りて突然の「日本新党」の結成を発表。平成4年(1992年)7月の参院選に党代表として自ら名乗りを挙げ、結果、ミニ政党ながら4議席を獲得してしまった。

しかも、このときの参院でわずか4議席だった日本新党は、1年後の衆院選で大量の候補を擁立。折からの新党ブームもあり、無所属当選者の入党も含めて、じつに39議席を獲得した。

時に衆院を解散した宮澤喜一首相だが、自民党は過半数割れ、社会党も歴史的大敗を喫し、自民党を離党した新生党代表幹事の小沢一郎(現・立憲民主党)が“剛腕”を発揮。

新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけなど8党派が結集し、細川を首相に担ぎ上げて政権が発足した。

当時、細川は衆院議員1年生であり、戦後1年生議員が首相に就任したのは、吉田茂に次いで2人目という“奇跡”だった。

じつは、このときの衆院選を前に意気上がる細川に、筆者はインタビューをした思い出がある。

細川は軽妙かつ自信に満ち満ちた語り口で、おおむねこう言っていた。

「よく私のことを理想主義的すぎると言う人がいるが、私は理想こそ最終的に人を動かすものだと思っている。日本新党という回転ドアは、いつでも回っている。志ある者は、誰でもいつでも入ってきてほしいな」