破壊王・橋本真也、急逝から20年 いま振り返る珠玉の名勝負3選

橋本真也 (C)週刊実話Web
新日本プロレスやZERO-ONEのリングで数々の名勝負を繰り広げ、多くのファンの心にその名を刻んだプロレスラー・橋本真也。時に苛烈に、時に泥臭く、常に全力疾走だった橋本の闘いは、プロレスの奥深さと男の生きざまを見せつけてくれた。
2005年7月11日、橋本が脳幹出血により40歳という若さで急逝してから、今年で20年を迎える。一時代を築いた“破壊王”を偲び、伝説となった珠玉の名勝負を振り返える。

2度の敗北を乗り越え天龍源一郎を撃破

(1)橋本真也vs天龍源一郎(1994年2月17日、両国国技館)
1992年7月にWARを旗揚げした天龍源一郎が、新日本プロレスに宣戦布告。

反選手会同盟(のちの平成維震軍)と激戦を繰り広げ、同年12月に大将・越中詩郎、翌年1月に長州力を撃破しており、今後の展開に注目が集まっていた。

この頃、グレート・ムタ(武藤敬司)がIWGPヘビー級王座を獲得したり、蝶野正洋が真夏の祭典「G1クライマックス」2連覇を果たすなど、闘魂三銃士の同期が活躍する一方で、橋本は低迷していた。

そんな中、橋本は天龍とのシングルマッチで起死回生を狙い、新日本のシリーズを休んでWARに参戦。橋本の熱意が伝わったのか、天龍はWAR1周年興行(1993年6月17日開催)のメインイベントの対戦相手に橋本を指名した。

試合は、パワーボムで橋本を粉砕した天龍が勝利した。

2カ月後の8月8日、両国国技館で行われたG1クライマックス最終戦で、橋本は再び天龍と対戦するも、ここでも天龍のパワーボムに屈してしまった。

ただ、橋本は2度の対戦で大きく成長していた。9月20日の愛知県体育館で、グレート・ムタを撃破してIWGPヘビー王座を初戴冠したのだ。

橋本は天龍との再戦を表明し、1994年の2月17日に3度目の一騎打ちが実現した。

ノンタイトル戦だったが、橋本はIWGPのベルトを腰に巻いて入場し、新日本のトップとして天龍に挑むという意思表示だった。 

試合は激闘となり、天龍がチョップやキックを見舞うと、橋本は鼻血を噴き出しながらもミドル&ハイキックで報復した。 

橋本のDDT、天龍のパワーボム…お互い必殺技の応酬となるも、事態は最終局面へと突入する。

天龍がサードロープを使ってDDTを狙うと、橋本がチョークスラムで切り返して天龍をマットに叩きつけ、最後に大技・ジャンピングDDTを繰り出し、ついに3カウントを奪ったのである。

試合後、マイクを持った橋本は「やったぞ、俺は!」と大絶叫した。

その後、橋本は藤波辰爾に敗れてIWGPヘビー級王座を一度は手放すものの、すぐに藤波を破って王者に返り咲き、1995年には「プロレス大賞MVP」を獲得したのだった。