田中角栄とは「水と油だった」超エリートの宮澤喜一が72歳まで首相になれなかったワケ

ゴルフでは「グッド・ショットが正解だな」と嫌味

その宮澤が首相のイスにすわったのは、平成3年(1991年)11月、じつに72歳であった。

早くから自民党内で将来を嘱望され、いわゆる「ニューリーダー」として位置づけられていたにもかかわらず、ここまで時間がかかったのは、そのクセのある性格が手伝っていたからだ。

前出の元「宏池会」担当記者が、こう続けたものである。

「英語力がピカ一だった宮澤だが議員仲間とゴルフ場に行くと、しばしば顰蹙を買っていた。
誰かが『ナイス・ショット!』などと言おうものなら『あれはグッド・ショットが正解だな』。同様に『オーバー・ドライブ!』は『いえ、あれはアウト・ドライブですね』と、逐一“正式英語”に訂正してしまう。
このように、誰もが生理的な拒否反応を起こしてしまうことで、宮澤は自民党内で強いバックグラウンドを持ち得なかったのです。同時に、積極的に子分をつくろうともしなかった。ために、首相のイスがなかなか回ってこなかった」

以前、この連載で記したように、中曽根康弘が「裁定」で竹下登を後継に担いだものの、その竹下はリクルート事件でつまずき、退陣を余儀なくされた。

しかし、自民党の主導権は最大派閥としての竹下派が握り続けていた。

一方、竹下派内では主導権争いが生じていた。

竹下に近い橋本龍太郎、小渕恵三らに対し、49歳の竹下派会長代行だった小沢一郎が、金丸信と歩調を合わせて、これに対抗する図式になっていたのだ。

前幹事長の小沢は、その「剛腕」ぶりで自民党内に知られていた。

平成3年10月10日、9日後に告示される自民党総裁選を前に、小沢はすでに立候補を表明していた3人の派閥会長、宮澤、渡辺美智雄、三塚博を永田町にある自らの事務所に呼び、それぞれを「面接」した。