「29年後には天下を取ってみせる」海部俊樹は“29”という数字に縁がある男であった

社会党・村山富市と総理の座を争って惨敗

まず、最大派閥である竹下派の雄として、自民党幹事長を務めていた小沢一郎が、竹下との関係を悪化させた。

これに振り回される格好で、政権は折からの湾岸戦争に絡んで130億ドルの拠出と自衛隊派遣を強いられ、平成2年(1990年)10月、自衛隊を国連平和維持活動(PKO)の「協力隊」にするという名目で法案提出を余儀なくされた。

しかし、この法案は中身の杜撰さも手伝って衆院で廃案となり、政権の自民党内での求心力は地に堕ちていったのである。海部は“最後の抵抗”として衆院の解散・総選挙で愁眉を開こうとしたが、ここでも小沢の前に総理の専権事項である解散権さえも封じられ、結局、内閣総辞職せざるを得なかった。

政権を降りた後の海部は、その政治行動であまりに大きな“振り幅”を示した。

海部はよりによって因縁の小沢に担がれ、時に自民党が推した社会党の村山富市と総理の座を争って惨敗、これを機に小沢が立ち上げた新進党にも参加し、初代党首となった。

自民党総裁(総理大臣)を経た者が、離党して対抗勢力の党首になるなどは前代未聞で、さすがに怒った自民党は党本部総裁室に飾られている歴代総裁の額から、海部のそれを外してしまった。

振り返れば「弁論の士」であった海部は、三木武夫を「政治の師」として仰いだが、残念ながら海部は信念の強さとしたたかさという点で、師匠の足元には遠く及ばなかったのだった。

(本文中敬称略/完=次回は宮澤喜一)

「週刊実話」6月5日号より

歴代総理とっておきの話】アーカイブ

小林吉弥(こばやし・きちや)

政治評論家。早稲田大学卒。半世紀を超える永田町取材歴を通じて、抜群の確度を誇る政局・選挙分析に定評がある。最近刊に『田中角栄名言集』(幻冬舎)、『戦後総理36人の採点表』(ビジネス社)などがある。