「29年後には天下を取ってみせる」海部俊樹は“29”という数字に縁がある男であった

海部俊樹(首相官邸HPより)
永田町取材歴50年超の政治評論家・小林吉弥氏が「歴代総理とっておきの話」を初公開。今回は海部俊樹(下)をお届けする。

29歳で初当選後、29年後の58歳で総理に就任

海部俊樹は昭和生まれの早稲田大学雄弁会出身者で第1号の代議士となったが、この雄弁会は大学の弁論部としてはなんとも異色で、まさに“政治家養成所”のおもむきがあった。

明治35年(1902年)12月、栃木県の足尾銅山から流れる鉱毒が環境汚染をもたらした際、多くの学生が悲惨な実情を調査し、世間に報告した。

早稲田大学では、こうした姿勢を形として残そうという機運が高まり、間もなく同大学の前身、東京専門学校を創設した大隈重信(のちに総理大臣)が雄弁会結成を後押し、自ら総裁におさまった。

以後、早大雄弁会からは戦前だけで50人を超す政治家が生まれ、石橋湛山、永井柳太郎、緒方竹虎、浅沼稲次郎、三木武吉、西武コンツェルンの総帥で衆院議長まで務めた堤康次郎など、錚々たる顔ぶれである。

また、戦後も衆参の国会議員を多々輩出しており、与野党問わず親交と協力の場を構築。

今回紹介する海部をはじめ竹下登、小渕恵三、森喜朗の総理大臣4人のほか、中曽根(康弘)内閣で官房長官を務め「将来の総理候補」と呼ばれた藤波孝生、衆院副議長ほか通産大臣、厚生大臣などを歴任した渡部恒三など、政界の第一線で活躍した者は枚挙にいとまがない。

さて、海部は「29」という数字に、妙に縁がある男であった。

昭和35年(1960年)の衆院選挙では29歳で初当選を果たし、昭和生まれ初の代議士誕生として話題を呼んだが、その前後にも「29」とは、何度も巡り合うのである。

早稲田大学法学部を卒業したのが昭和29年、初当選は第29回総選挙で、割り当てられた衆院第1議員会館6階の部屋番号も29号室だった。

また、海部が秘書として仕え、政界入りのきっかけとなった河野金昇の命日も、これまた昭和33年3月の29日である。

さらに、海部は43歳の若さで米国大統領に就任したJ・F・ケネディに憧れていたが、そのケネディが下院議員になったのが29歳であった。

そのうえで、海部は陣笠議員の頃から「29年後には天下を取ってみせる」と豪語しており、その言葉通り29年後の58歳で総理に就任している。