追悼“ミスタータイガース”小山正明さん 阪神番記者が明かす「世紀のトレード」2つの事実

阪神甲子園球場 (C)週刊実話Web
【阪神球団創設90周年ベンチ裏事件簿】第六弾
阪神球団創設90周年。プロ野球界で長らく巨人と人気を二分してきた“西の雄”だ。その阪神の番記者として陰に陽に取材してきたのが、元スポーツニッポンの吉見健明氏。トップ屋記者として活躍した同氏が、知られざる阪神ベンチ裏事件簿の“取材メモ”を初公開する。

追悼・小山正明さん

通算勝利数歴代3位の320勝を挙げた小山正明さんが4月18日、心不全のため東京都内の病院で亡くなった。90歳だった。

筆者と本音で付き合ってくれた小山さんの訃報は、残念ながらニュースで知った。

当初は本短期連載で予定していなかったが、阪神のエースとして大活躍した小山さんを急きょ、取り上げたい。

以降は敬称無しで書くことをお許し願いたい。

阪神創設1年前の1934年に生まれた小山は、兵庫県・高砂高校からテスト生で前身の大阪タイガースに入団(’53年)した。

同年5勝、翌’54年に11勝を挙げた。’62年には27勝するなど、村山実(25勝)と共に“2本柱のエース”として阪神優勝の原動力となった。

阪神在籍11年間で176勝を挙げた小山は「投げる精密機械」と呼ばれた。その小山は’64年、阪神を去ることになる。

「打撃の職人」といわれた毎日大映オリオンズ(現・千葉ロッテ)の山内一弘との「世紀のトレード」が成立したのだ。

もっとも、世紀のトレード時、筆者はまだ大学生だったので現場情報は一切知らない。

だが、筆者がスポーツ紙の記者となり小山と親しくなると、当時の様子をマウンド上のピッチングと同様に淡々とした口調でこう振り返っている。

「何の動揺もなかった」「あの時代は何事も言われたことに従う。それが常識だった」

プロ野球界はおろか日本社会を騒然とさせた一大事に対し、当事者の小山は冷静に受け止めていたのである。

その真意は後述するとして、そもそも、小山と筆者の出会いは、小山が阪神投手コーチ時からだ。

第1次吉田阪神の担当記者だった筆者は、監督の吉田義男より小山と馬が合った。

小山が私の友人であるミスタータイガース・田淵幸一を気に入っていたせいもあり、筆者とは何でも話してくれる間柄になった。

東京遠征の際には、小山から「他の記者をまいて来い」と言って2人で東京・池袋で会っていたものだ。