江夏豊「黒い霧事件」「トレード放出」「覚醒剤逮捕」の真相を阪神番記者が激白

江夏番記者を出し抜いた会心のスクープ

吉田政権の1年目のシーズンが終わった秋季のオープン戦で象徴的な場面があった。

宿泊先の旅館から試合に出発するため全員がバスに乗り込んだが、江夏だけがいつまで経ってもやって来ない。朝まで花札をして遊んでいたのだ。

後に聞いたところ、日刊スポーツのI記者が「監督が怒ってまっせ~」と声を掛けると「怒らせとけばいい」とこれ見よがしにゆっくり歩き、鼻歌交じりでバスに乗り込んだそうだ。

この一件で吉田も堪忍袋の緒が切れたのだろう。翌’76年の年明けに江夏と南海ホークスのエース・江本孟紀を含む2対4のトレードが正式に発表された。

トレードの第一報は日刊スポーツで、筆者はスクープを抜かれた悔しさもあって、何とか特ダネを抜き返そうと江夏を徹底的にマークし続けた。

ある夜、1人で西宮のラウンジにいた江夏を見つけて勝負に出た。

筆者は江夏の隣に座って独占手記を持ち掛け、自分の財布からなけなしの2万円を抜き出し無造作に手渡した。

考えさせる間も断る間も与えず江夏からトレードの心境を聞き出すと、すぐに店を出て編集部に電話を入れ、速記者を相手に口頭で記事内容を伝えた。

翌日、江夏と敏江夫人のツーショット写真とともに独占手記がスポニチの1面トップを飾った。並み居る江夏番記者を出し抜いた会心のスクープだった。

南海に移籍して以降も、江夏は素晴らしい投手であり続けた。しかしその半面、どの球団でも馴染むことはできずチームを転々とすることになった。

南海では野村克也監督の下で抑えに転身し、リーグの最優秀救援投手にもなったが、最終的には野村の公私混同による解任騒動の煽りを喰らって、広島東洋カープに移籍することになった。