江夏豊「八百長襲撃計画」(1973年)の真相 阪神番記者だけが知っている田淵幸一の激怒

江夏豊 (C)週刊実話Web
【阪神球団創設90周年ベンチ裏事件簿】第三弾
阪神球団創設90周年。プロ野球界で長らく巨人と人気を二分してきた“西の雄”だ。その阪神の番記者として陰に陽に取材してきたのが、元スポーツニッポンの吉見健明氏。トップ屋記者として活躍した同氏が、知られざる阪神ベンチ裏事件簿の“取材メモ”を初公開する。

「江夏を取るか他の選手を取るか決めてください」

阪神タイガースほど「お家騒動」が話題になる球団はないだろう。

オーナーや球団フロント、首脳陣、そして選手と個性の強い面々が時に真剣に、時に新喜劇のようにドタバタのお家騒動を繰り返してきた。

強く印象に残っているのが1973年のチームだ。当時の球界は日本シリーズ8連覇中の巨人が君臨しており、阪神は後塵を拝していた。

そんなチームに勃発した騒動の中心にいたのは金田正泰監督とエースの江夏豊だった。

火種は前年から燻っていた。’72年は村山実が選手兼任監督を務めていたが、シーズン途中から投手に専念するためヘッドコーチだった金田に指揮権を譲っていた。

最終的に2位に終わったシーズン終了後、村山は現役引退と監督辞任を発表して金田が正式に監督となるが、これが村山を慕っていた藤井栄治や権藤正利といった一部のベテラン選手には「金田が村山を追い出した」と映ったようで、チーム内には不穏な空気が漂っていた。

江夏はこうした派閥争いとは無関係で、前年までは金田との関係も悪くなく、お互い、「ユタカ」「オジキ」と呼び合う仲だった。

ただ、もともと一匹狼タイプの江夏は野手陣との折り合いが悪く、シーズンに入ると田淵幸一や藤田平といった主力選手の不満が爆発。

金田に対して「江夏を取るか他の選手を取るか決めてください」と詰め寄り、金田は田淵ら主流派を重視し、江夏との関係は口も利かないほど冷え切ってしまった。

それでもチームは勝利を重ね、ラスト2試合で1つでも引き分ければ優勝というマジック1まで迫っていた。

残るゲームは中日戦と巨人戦。最終戦が2位の巨人だったため、中日戦の先発投手を誰にするかが話題となった。