1970年の「田淵幸一血みどろ頭部死球」一部始終 阪神ベンチ裏事件簿の取材メモを初公開

村山監督から選手と記者の付き合い方を享受

筆者は田淵番記者として採用されたようなもので、本当に再起不能となれば自分も記者としては不要になってしまう。

悶々としながら病室にいると監督の村山が病室にやって来た。

まだ朦朧とする田淵を見舞った村山は病室を出ると私を手招きで呼び、病院の外に連れ出した。

「吉見くん、ご苦労さん。だがな、本当の親友なら仕事は別にしないと。内部の病状が先に新聞に出るのはよくないわ。あれは家族が苦しむんや。吉見くんにはこれからも田淵と友達の関係を大事にしてほしいんや」

真剣な表情で話す村山の言葉にハッとさせられた。

記者として、親友として、自分の行動はどうだったのか。知らなかったとはいえ、記事になってしまった罪悪感が湧き上がった。

後に知ったことだが、村山には親しかった記者の書いた記事が原因で、夫人が自殺するという悲しい過去があった。

だからこそ、田淵と親しかった筆者に選手と記者としての付き合い方を忠告してくれたのだろう。

村山は後に筆者がスポーツ新聞に転職する際にも、お世話になるなど何かと気にかけてくれた。

その後、田淵は大阪市内の大阪厚生年金病院に移され、手術することもなく回復することができた。

左耳に難聴の後遺症は残ったが、幸いなことに死球の瞬間の記憶が残っておらず、精神的な後遺症は一切なかった。

「球が当たって痛いと感じる前に気を失っていたんだ。恐怖を感じなければ怖さも残らないもんだな」

いかにも田淵らしい反応にホッとしたことを覚えている。

翌シーズンの田淵は見事に復活。ミスタータイガースの愛称にふさわしい活躍で、筆者の仕事も忙しくなっていった。

【一部敬称略】

「週刊実話」4月24日号より

【吉見健明】

1946年生まれ。スポーツニッポン新聞社大阪本社報道部(プロ野球担当&副部長)を経てフリーに。法政一高で田淵幸一と正捕手を争い、法大野球部では田淵、山本浩二らと苦楽を共にした。スポニチ時代は“南海・野村監督解任”などスクープを連発した名物記者。『参謀』(森繁和著、講談社)プロデュース。著書多数。