「偉大な政治家は、すべからく風見鶏!」巧妙な立ち回りで出世の階段を駆け上がった中曽根康弘の“政界処世術”

中曽根康弘(首相官邸HPより)
いま政局の風はどういう向きに吹いているのか、それを測る中曽根康弘の「風見鶏」ぶりは、昭和47(1972)年7月、事実上の一騎打ちとなった田中角栄と福田赳夫による自民党総裁選で“全開”となった。

つまり、この「角福総裁選」において、どちらの陣営を支持したほうが、やがて自らの天下取りで有利に働くかという思惑にほかならず、結果、中曽根は田中を選んでいる。

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当時、この総裁選を取材した政治部記者の、こんな話が残っている。

「当初、中曽根自身も立候補をチラつかせたが、途中で不出馬を決めた。勝機がないうえに惨敗となった場合、政権の座が大きく遠のくことを恐れたからである。その後、田中と福田のどちらを担ぐかとなって、同じ上州(群馬県)出身のよしみで福田を担ぐのではと思われたが、『田中側の強力な工作に応じた』とされる一方、『中曽根派の若手を中心とした大勢が田中支持だった』などの理由から、結局は田中側に回った」

しかし、結果的にはこの選択が、のちに生きることになる。

「風見鶏」は読みを間違えず、正しい“方向”を向いていたのである。

この総裁選で田中が勝利したことにより、中曽根は同政権下で通産大臣兼科学技術庁長官、国務大臣(沖縄海洋博担当)と約2年間、田中が退陣するまで大臣ポストにすわり続け、箔を付けることができた。

一方で、この田中が金脈・女性問題で退陣すると、寸前で微妙に体をかわしていたことが功を奏し、後継の三木武夫政権では、当時、総理・総裁を目指す者には必須ポストといわれた幹事長のイスが、転がり込んでくるといった具合だった。

また、三木政権が倒れると、次の福田赳夫政権では三木と“同罪”で野に下らざるを得なかったが、福田政権のあとに大平正芳政権が発足すると、またもや中曽根は「風見鶏」ぶりを発揮する。

自民党「四十日抗争」あたりでは、もともと非主流派の立ち位置だったが、後半は反主流派として政権から離れるのであった。