「犬の遠吠えでは効果がない」佐藤栄作政権の誕生とともに回転を始めた中曽根康弘の“風見鶏”

中曽根康弘(首相官邸HPより)
昭和22(1947)年の衆院議員選挙で初当選を果たした中曽根康弘は、国会初登院の日から遺憾なくパフォーマンスを発揮した。

いずれも自らの“信念”にのっとったもののようであったが、とにかく当初から、世間の耳目を集めることには熱心であった。

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初当選の翌年には所属していた民主党の総裁争いに際し、ドタ靴のまま首相官邸に乗り込み、「芦田均を総裁にすべし!」との大音声を発して、恐れをなした民主党幹部から五・一五事件、二・二六事件を想起させる「青年将校」のあだ名を頂戴した。

また、昭和26年には突如として「日の丸愛国運動」なるものをブチ上げ、ついにはGHQ(連合国軍総司令部)のマッカーサーに建白書を送りつけて、世間に“反共憂国”の士であることを印象づけるといった具合であった。

さらに昭和29年には、時の改進党を代表して衆院予算委員会で質問に立ち、自由党の幹事長だった佐藤栄作の「造船疑獄」関与に言及、「私は確信を持っているんだ!」と迫り、自由党の吉田(茂)政権に脂汗をかかせたりもした。

もっとも“やり過ぎ”もあり、昭和31年の鳩山(一郎)政権下では、衆院本会議で「日ソ共同宣言」の批准について賛成演説に臨んだものの、「涙をのんでやむなく日ソ国交回復に賛成したものだ」と余計なことを付け加えたため、この演説の速記録が全面削除となってしまった。

戦後の本会議において速記録の全面削除というのは、この一件をおいて他にないのである。

その後、やがて政権が岸信介に移行すると、科学技術庁長官として念願の初入閣を果たした。

ここでも中曽根は「わが日本も昭和38年には人工衛星を打ち上げることになるだろう」と、得意のブチ上げで悦に入る一方で、「私にとっては大将(首相)へ向かってのスタートである」との本音も吐露。

それから間もなく、中曽根は新聞に「首相の国民投票制の実現を」と投書している。