喪服姿で国会に初登院!?「風見鶏」とやゆされた中曽根康弘の“遊泳パフォーマンス”



首相になるためのあらゆるパフォーマンスを展開

“まず”とは、例えば政権さなかの昭和58年に起こった「大韓航空機撃墜事件」では、日本、ソ連(現・ロシア)、韓国間で不測の事態に発展する危機に直面したが、後藤田の冷静な危機管理に助けられ、中曽根自身の外交的リーダーシップは見えてこなかったからだ。

一方で、内政は50点にとどまった感があった。

日本国有鉄道(現JR)、日本専売公社(現JT)、日本電信電話公社(現NTT)の3公社民営化、あるいは規制緩和を進め、国債依存度を下げることには一応の成功を見た。

しかし、「プラザ合意」によってバブル経済を呼び込み、大きく減点されている。

中曽根は若い頃から一貫して首相の座を目指し、そのために数々のパフォーマンスを駆使したことで知られる。

また、周囲の状況によってたびたび態度を変えたことで、その政治スタイルは「風見鶏」と揶揄されることもあった。

中曽根は東京帝国大学法学部在学中、高文行政科の試験(現在の国家公務員総合職試験)に8番で合格、内務省に入省するなど頭脳明晰であった。

しかし、ここで海軍を志願し、東京・築地の海軍経理学校に入って主計中尉となった。

当時のこんなエピソードがある。

「太平洋戦争の開戦直後に設営隊長を命じられた中曽根は、およそ3000人の部下を率いてフィリピンのダバオに上陸した。部隊はヤクザ上がりをはじめ荒くれ者ぞろいだったが、ここで中曽根は、『おまえらの命を俺にくれ』などと格好良く丸め込み、若さに似合わず抜群の統率力を示したといわれている」(元中曽根派担当記者)

終戦後は内務省に戻った中曽根だが、警視庁の監察官に転じたところで同省に辞表を提出し、郷里の群馬県へ帰ってしまった。

これを契機に中曽根は、やがては首相になるためのあらゆるパフォーマンスを展開するのである。