鈴木善幸が“状況判断”の材料にしていたのは…自宅に殺到する記者陣に「ジョニ赤」を飲ませて逆取材!?

鈴木善幸(首相官邸HPより)
昭和55(1980)年7月、鈴木善幸が首相に就任した際、さち夫人は「ファースト・レディー」の心境を問う報道陣に向かって「しょせんカラスはカラスで白鳥にはなれません」と、あくまでも“自然体”で臨むことを口にした。

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「白鳥にはなれない」という言葉は、鈴木との“なれそめ”から陣笠代議士の頃まで、スマートとは言い難い生活を送ったことにも由来していたようである。

鈴木は農林省水産講習所(現・東京海洋大学)で「秀才」とされ、卒業後は「漁村救済」の情熱に燃えて全国漁業協同組合連合会(全漁連)に就職し、さち夫人と見合い結婚をしている。

鈴木がまだ水産講習所の学生だった昭和8(1933)年3月3日、震度5の地震と続く大津波の襲来で、故郷の岩手県山田町が壊滅状態に陥った。

鈴木の「漁村救済」に懸ける思いは、この災害による甚大な被害を目の当たりにしたことで芽生えたという。

筆者のインタビューに、さち夫人はこう答えている。

「主人は『あの三陸大津波がなかったら自分は政治家になっていない』と、よく言っていました。その後、戦争をはさんで結婚生活8年目を迎えたとき、主人は昭和22(1947)年4月の総選挙に初出馬するのですが、その間、新世帯に甘い空気などはまったくなかったですね。主人の同志と称する若者がいつも何人か居候していて、昼夜を問わず漁業の近代化、天下国家を論じて口角泡を飛ばすといった具合で、家はさながら梁山泊のようでした。時には、こうした何者かも分からぬ豪傑たちの、薄汚れた“六尺ふんどし”を手洗いさせられたものです。電気洗濯機などない時代、たらいに洗濯板、石鹸でゴシゴシですから、当初は1年か2年、結婚生活がもつのかと思ったものです」