“暗愚の宰相”鈴木善幸が魅せた人道主義「力量に欠ける」就任会見で驚きの発言も

鈴木善幸(首相官邸HPより)
大平正芳首相の急死により“ひねり出された”後継が、大平派の最高幹部だった鈴木善幸である。

この鈴木を“ひねり出した”のは田中角栄で、折からロッキード事件でもまれ、なお影響力の温存を窺うなかで「盟友」を担ぎ出した格好だった。

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鈴木と田中は昭和22(1947)年4月、新憲法下で初となる総選挙で同じく初当選を果たした。

以来、派閥は違えど交流は長く、田中政権時代の鈴木は「現住所・大平派、本籍・田中派」などと言われたくらい意思の疎通は密であった。

田中が影響力を残すには、これ以上ない鈴木政権でもあったのである。

その鈴木は手堅い政治手法に定評があり、とくに調整能力に優れ、まとめ役として出色の存在だった。

なにしろ昭和43(1968)年の第2次佐藤(栄作)内閣で自民党の総務会長に就任し、じつに通算10期も務めているのである。

しかし、閣僚として強い存在感を見せつけたことはなく、もとより総理・総裁候補として取り沙汰されたこともまったくなかっただけに、首相に就任すると国内外から「鈴木善幸って何者?」「ゼンコー・フー?」という反応が寄せられた。

また、首相のお鉢が回ってきたことで、最も驚いていたのが鈴木自身であった。

昭和55(1980)年7月15日の自民党両院議員総会において、満場一致で総裁に選ばれた鈴木は、次のように就任の挨拶をしている。

ちなみに、満場一致で選ばれた背景には、当時の自民党内が派閥抗争で疲れきり、厭戦気分が広がっていたことがある。

大平、田中両派に加え、宿敵の福田赳夫までが鈴木支持でやむなしとしたことで、上位3派閥により“流れ”が決まったということだった。