グラン浜田さんと永島勝司さんの訃報 蝶野正洋がプロレス界を盛り上げた2人の傑物を追悼

蝶野正洋(C)週刊実話Web
2月中旬、新日本プロレス出身のプロレスラー・グラン浜田さんが亡くなった。

浜田さんは学生時代に柔道のオリンピック候補に入るほどの実力者で、1975年にメキシコへプロレス修業に出ると現地でスターとなり、日本人レスラーがメキシコで活躍する筋道を切り開いた。

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他にもさまざまな団体の立ち上げに関わるなど、プロレス界に多大な功績を残した人物だ。

俺とは時期的にすれ違いになってしまい、興行で一緒になったことは数回しかないが、人柄は気さくで昔ながらのプロレスラーというイメージがあった。

印象深かったのは、浜田さんがある地方大会に出たとき。どちらも右足のシューズを持ってきてしまった浜田さんが、それで試合をしたんだよ。

控室に戻って来た浜田さんが「ダメだこれ。どっちも右だとまっすぐ歩けなくて、左に回っちゃう」と言って、大笑いしていたのが忘れられない。

心よりご冥福をお祈りします。

裏方になるけど、新日本プロレスで企画宣伝部長や取締役を務めた永島勝司さんの訃報も伝えられた。

永島さんは、もともと東京スポーツで整理部長をやっていたんだけど、専修大学出身で同門の長州(力)さんとの関係が深く、88年に新日本プロレスに入ってきた。

ちょうど俺たち闘魂三銃士がメインに上がっていく時期だったから、マッチメイクに絡んでいた永島さんと関わることは多くて、俺たちは永島さんのことを「オヤジ」と呼んで親しくさせてもらった。

永島さんは「平成の仕掛け人」なんて呼ばれてたけど、やり口は完全に昭和のオヤジ。例えば俺がケガで欠場しているときに永島さんから電話がかかってきて、「おまえが休んで武藤(敬司)が喜んでるぞ」と対立感情をあおってくる。

俺も「これはたきつけてるだけだな」とは思うんだけど、それでも武藤さんに対して「この野郎!」と奮い立ってしまう。

東スポ仕込みの人が気になるようなポイントを突くのがうまくて、常に仕掛けを考えているアイデアマンだった。

橋本真也がイタズラし大暴れ

そんな永島さんが一番怒ったのが、89年の大みそか、現ロシアの首都・モスクワで試合をしたときだ。

あのときは永島さんと橋本(真也)選手が先遣隊として一足早く現地に行っていて、向こうで選手を発掘したり、アマレスの選手にプロレスを教えたりしていたんだけど、まだソ連時代だったので、移動中はずっと監視がついているような状況。

橋本選手はウオッカでも飲んで羽を伸ばせると思ってたみたいで、「話が違う」とイライラしていた。

そこに俺たちも試合をするために合流。その打ち上げの席で、橋本選手が永島さんのライターの火力を最大にするイタズラをしたんだよ。

タバコを吸おうとしたときに火がバーッと吹き出て、永島さんの眉毛がすべて燃えてしまった。

そしたら永島さんは「誰がやったこの野郎!」と大暴れしてね。

モスクワまで来て何やってんだって話だよ(笑)。

永島さんにはいろんな迷惑をかけたし、かけられたけど、情け深いところもあって、何かと相談にも乗ってくれた。

武藤さんが全日本プロレスに行ったのも、最初につないだのは永島さんだったはずだよ。

永島さん、いろいろお世話になりました。

寂しくなりますが、ゆっくりお休みください。

「週刊実話」3月20日号より

蝶野正洋(ちょうの・まさひろ)

1963年シアトル生まれ。1984年に新日本プロレスに入団。トップレスラーとして活躍し、2010年に退団。現在はリング以外にもテレビ、イベントなど、多方面で活躍。『ガキの使い大晦日スペシャル』では欠かせない存在。