恐妻家との指摘には「敬妻家」と切り返し! 政治記者も舌を巻いた福田赳夫の“機転”と“圧倒的な秀才ぶり”

福田赳夫(首相官邸HPより)
三木武夫内閣で本意ではなかった副総理に就任したとき、「ナニ、“拭き掃除”大臣じゃよ」といなしたり、「再選」に自信たっぷりで臨んだ自民党総裁選の予備選挙で、田中角栄の強力支援を受けた大平正芳によもやの敗北を喫し、「天の声にも変な声がある」と暗に田中を批判したり、軽妙、洒脱な「造語」を連発していた福田赳夫だが、じつは芯の強い、熟慮型の政治家であった。

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ちなみに、その秀才ぶりは“栴檀は双葉より芳し”で、群馬県の旧制高崎中学では首席で卒業した際の全科目平均が、じつに98.7点と“空前絶後”の成績で、とりわけ数学は授業で教える解き方では満足できず、“福田流”で解いてみせては、教師を唸らせたこともしばしばであった。

また、他の科目でも教師が曖昧なことを言おうものなら、徹底的に食い下がるというしぶとさを持っていた。

政界入り後に随所で発揮した「反骨」ぶりは、こうした子供の頃から培われていたのだ。

その後、旧制一高、東京帝国大学に進学し、卒業後は大蔵省(現・財務省)にトップで入省している。

官僚として「エリート中のエリート」と言われる同省の歴史のなかでも、この福田と宮澤喜一(のち首相)の2人が、「群を抜く圧倒的な秀才として双璧だった」とされているのである。

その福田は、昭和41(1966)年12月発足の第1次佐藤栄作内閣の第3次改造で、自民党幹事長に就任した。

田中も幹事長となるのだが、長く党本部の幹事長室長を務め、この両者を見てきた奥島貞雄は、その著『自民党幹事長室の30年』(中公文庫)で、陳情客などに対する対応の違いを次のように記していた。