田中角栄の代名詞「今太閤」の名付けにも関与! 政治記者も目を剥く「造語名人」だった福田赳夫の洞察力



金言、名言も数多く…

かく福田には、時代の風潮なども巧みな言葉に置き換える「造語名人」の声が高かったのだが、そうしたなかには、金言、名言の類いも少なくない。

例えば、昭和30年代の池田勇人内閣時代、カネやモノに国民の目が行き、消費は美徳として高度成長を謳歌していた際には、この風潮を「昭和元禄」と皮肉ってみせた。

昭和42年5月に佐良直美のデビューシングル『世界は二人のために』がヒットしたが、当時、自民党幹事長だった福田は、「若い人は『世界のために二人はあるの』という気概を見せてほしい」として、人だけを中心としたマイホーム主義ではなく、もっと世界に目を向けて貢献すべきであると主張した。

また、昭和43年11月に佐藤栄作内閣で2度目の大蔵大臣に就任したときは、景気が過熱化の様相を呈し、消費者物価が上昇したことにより、その沈静化が経済運営の緊急課題だった。

しかし、福田はこう言って自分の立場を表現し、胸を張ったものだった。

「私はファイナンス・ミニスター(大蔵大臣)にあらずしてファイアーマン(消防士)である」

昭和47年7月、かの壮絶な「角福戦争」と呼ばれた自民党総裁選で火花を散らす少し前には、ライバルの田中を「昭和の藤吉郎」として「大成すれば、いずれは太閤までいく人物ではある」と評した。

このとき福田から「昭和の藤吉郎」とされた田中は、結局、ポスト佐藤をめぐる一戦に勝ち、マスコミからは「今太閤」と持ち上げられることになった。

後年に田中の代名詞となる「今太閤」も、じつは福田の発言に由来していたのである。

しかし、田中内閣における日本列島改造に加え、昭和48年のオイル・ショックで猛烈に物価が上昇すると、福田はこれを「狂乱物価」と表現し、田中の金融政策を切り捨てている。

そんな福田に筆者がインタビューしたのは、昭和54年夏、泥沼の権力闘争のなかで福田が「大平降ろし」に動いたときであった。

インタビューをして初めて、福田という政治家のさらなる一面を知ることになるのである。

(本文中敬称略/この項つづく)

「週刊実話」2月13日号より

小林吉弥(こばやし・きちや)

政治評論家。早稲田大学卒。半世紀を超える永田町取材歴を通じて、抜群の確度を誇る政局・選挙分析に定評がある。最近刊に『田中角栄名言集』(幻冬舎)、『戦後総理36人の採点表』(ビジネス社)などがある。