田中角栄の代名詞「今太閤」の名付けにも関与! 政治記者も目を剥く「造語名人」だった福田赳夫の洞察力

福田赳夫(首相官邸HPより)
昭和51(1976)年12月、ロッキード事件による自民党内の混乱と、その後の派閥抗争で首相の三木武夫が孤立し、政権を投げ出さざるを得なくなった。

そのあと、後継となったのが福田赳夫である。

明治38(1905)年生まれで、すでに71歳だった福田は、「(私は)明治38歳だ」と得意の「造語」で自己アピール、「遅すぎた総理」を糊塗してみせた。

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福田内閣は激しい政争の影響で、行政の空白、国政の不在による懸案が山積していた。

福田はスタートに際して、「(この内閣は)さあ、働こう内閣だ」と命名すると、初閣議で閣僚に号令を下したのだった。

そんななか、福田内閣はソ連(現・ロシア)との200カイリ問題の解決、暗礁に乗り上げていた新東京国際空港(現・成田国際空港)の開港、日中平和友好条約の締結など、まずは順調にすべり出した。

しかし、例えば首相に就任する前の外務大臣当時、日中の条約締結が思うように進まなかった頃、福田は「アヒルの水かきはちゃんとやっている」と、一見すると泳いでいないように見えるが、水面下では激しく水かき(仕事)をしていると強調するなど、芯は強気の持ち主だった。

一方、昭和52年度予算は、財政体質の改善と景気回復が重要なテーマだったが、福田は安定成長を目指していたにもかかわらず、赤字国債の大量発行を余儀なくされ、いわく「ああ、“でっかい荷物”を背負ってしまった」と、本音を表現したのだった。

多くの政治家の重要発言は、慎重を期してこれ四角四面のものが圧倒的だが、福田においては本音が「造語」になって表に出るというのが特徴的だった。

その最たる「造語」は、再選を目論んだ昭和53年11月の自民党総裁選で飛び出した。