豪胆な政治活動とは裏腹! 夫人や秘書もあきれるほど世事に疎かった三木武夫の「駄々っ子」逸話集

三木武夫(首相官邸HPより)
巧みな政界遊泳術で「バルカン政治家」の名を欲しいままにし、一方で理想家肌の政治家として一筋縄ではいかぬ三木武夫は、私生活においても“味のある人物”であった。

明治40(1907)年3月17日、徳島県の中農の家に長男として誕生した三木は、自ら「甘やかされて育った」と自著で告白しているように、悠々たる青年期を送っていた。

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明治大学では弁論部に所属し、全国大会で優勝するほどの雄弁ぶりだったが、時の「言論弾圧」への批判演説も辞さずで、会場で監視していた警官から「弁士中止ッ」の命令を受けたこともある。

また、先輩から国際性を身につける必要性を説かれ、親からもらった5000円で欧米諸国を遊学、スイスのジュネーブで国際連盟の軍縮会議を傍聴して感激するや、このとき「男の仕事は政治である」と決意を固めた。

ちなみに昭和初期の5000円は、当時“あんみつ”1杯がおよそ10銭だったことからすると、500万円ほどの貨幣価値になる。

さらに、4年間に及ぶ米国留学から帰朝後の昭和12(1937)年、なんと学生服を着たまま30歳で衆院選に立候補、無所属で初当選を果たした。

その勢いと卓越した弁舌から、新聞では「カミカゼ候補」と報じられている。

以来、一貫して政治以外の仕事に就いたことがなく、政治一筋のまさに「議会の子」であった。

しかし、一方で政治以外は世間知らずを通り越し、まさに「駄々っ子」そのもの。夫人の睦子、秘書だった荻野明巳、三木派議員など関係者からは、なんとも世事に疎いエピソードが聞かれたものであった。