豪胆な政治活動とは裏腹! 夫人や秘書もあきれるほど世事に疎かった三木武夫の「駄々っ子」逸話集



政治信条は石破総理と同じ「無信不立」

「どのように接したら子供が喜ぶのか、かわいがればいいのかも、なんとも不器用で分からなかった。一人娘の紀世子(のちに参院議員)が20歳のとき、『相撲を取ろうか』とやって逃げられたことがあった」

「三木の“電話魔”ぶりは有名だったが、覚えている番号は自分の家のほか、一つか二つだけだった。三木が電話をかける段になると、決まって夫人が大判の電話用ノートを持ってきて、夫人がダイヤルを回す。この間、三木は腕組みなどをしながら、当然といった顔をしている。また、色紙などの揮毫の際も同様で、墨は自分でするものではないと思い込んでいた」

かく、なんとも“政治一筋の男”であった。

いまから40年以上前の昭和58(1983)年ごろ、筆者は都内渋谷区南平台町の三木邸に、よく取材で伺った記憶がある。

「宿敵」の田中角栄が脳梗塞で倒れるのは、その約2年後、昭和60年である。

渋谷駅の喧騒を抜けて道玄坂を上って行くと、一転して閑静な街並みが現れる。

南平台町は日本屈指の高級住宅街で、なかでも木造の三木邸は、敷地が約400坪とひときわ大きい。

時には庭で、時には台所に招かれて、出前の寿司をごちそうになりながら、三木から話を聞いた思い出がある。

あるとき、読書家だった三木から「最近、面白いと思った本を教えてくれ」と言われ、折から仕事が忙しかったため本を読む時間があまりなく、筆者はベストセラーだった立花隆の『宇宙からの帰還』(中央公論新社)1冊のみしか挙げられなかった。

対して、三木いわく「それだけかね…」と、何やら不満気な表情だったことを覚えており、「キミは不勉強じゃないか」と言われたような気がしたものである。

その三木の揮毫は決まって、「無信不立(信なくば立たず)」であった。

ちなみに、現首相の石破茂も同じ政治信条である。

もとより、政治家としてのタイプは、水と油ほど違うことは言うまでもない。

(本文中敬称略/完=次回は福田赳夫)

「週刊実話」2月6日号より

小林吉弥(こばやし・きちや)

政治評論家。早稲田大学卒。半世紀を超える永田町取材歴を通じて、抜群の確度を誇る政局・選挙分析に定評がある。最近刊に『田中角栄名言集』(幻冬舎)、『戦後総理36人の採点表』(ビジネス社)などがある。