マッカーサーの「総理就任要請」を2度も拒否!“バルカン政治家”三木武夫が見せた豪胆さと矜持

三木武夫(首相官邸HPより)
田中角栄が金脈・女性問題で退陣したあと、時の自由民主党副総裁・椎名悦三郎は、後継首相に三木武夫を「裁定」した。

三木はそれまで3度の総裁選に挑んで敗れてはいたが、「混乱する自民党の“救世主”は三木以外なし」という党内の判断が働いた結果であった。

昭和49(1974)年12月のことである。

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三木という人物は政治以外の仕事に一度として就いたことがなく、戦前戦後を通じて国会議員を務めたことから「議会の子」と呼ばれていた。

若くして「反官僚政治」を声高に叫び、自民党における後年は「政治の近代化」「反金権政治」を旗印として、とくに田中と対峙、自らは「クリーン三木」を標榜していた。

一方で、三木には「バルカン政治家」の異名があり、政界における遊泳術はなかなか、田中をして「アレはしぶとい。しかし、“芸”があるから生き残る」と言わせたこともある。

「バルカン政治家」とは第1次大戦当時、いまのセルビア、クロアチアなどがあるバルカン半島の小国群が、右に左に揺れながらも国の保全を図ってきたことから、したたかで生き残りに長けていることを指す。

なるほど、三木は戦後に群小の政党を渡り歩き、そのたびに重要ポストを手にして、政界の階段を上ってきた人物であった。

あまり知られていない話だが、その三木がまだ41歳だった昭和23(1948)年10月、じつは首相のイスに座るチャンスがあったという。

時に芦田均首相が昭和電工をめぐる贈収賄事件で退陣した直後で、GHQ(連合国軍総司令部)のマッカーサー元帥から、三木のもとに「すぐ総司令部に来てほしい」と電話が入った。

三木はすでに30代にして協同民主党の党首、国民協同党の書記長、委員長を歴任し、芦田内閣の前に日本社会党の片山哲が、民主党、国民協同党と組んだ連立内閣では、逓信大臣として入閣するなど数々の役職を経ていた。