マッカーサーの「総理就任要請」を2度も拒否!“バルカン政治家”三木武夫が見せた豪胆さと矜持



苦手な「原子力」も懸命に勉強

ここでも三木は「バルカン政治家」としての面目躍如で、党の要である幹事長ポストを得ている。

三木は石橋の積極財政論と、党近代化を目指す姿勢を支持していたが、その石橋は首相就任1カ月後に脳梗塞で倒れ、わずか65日で退陣を余儀なくされた。

その際も石橋が辞意を表明した書簡は、三木が代筆し、政権の幕を引いているのである。

また、一方で三木は「ノート魔」「メモ魔」として知られていた。要は、勉強家ということでもある。

昭和33(1958)年6月、第2次岸内閣がスタートすると、三木は経済企画庁長官兼科学技術庁長官に就任した。

ところが、経企庁長官はともかく、科技庁長官は苦手なポストであった。

もともと科学に造詣が深いわけではなく、とくに原子力問題にはうとかった。

のちに、産経新聞出身で三木の秘書だった荻野明巳が、こんなエピソードを伝えてくれたことがあった。

「あとで聞いた話ですが、毎週日曜日の夜に原子力の専門家に来てもらい、レクチャーを受けていたそうです。『ワシは頭が悪いから初めは小学生向きで、次に中学生向きで講義してほしい』と頼んで、懸命にノートを取ったと言います。時には、英語の単語用カードにポイントを書き、車の中でそれをめくっていたことも度々だったそうです。なかなかの勉強家でもあったということです」

こう記してくると、さすがに三木は首相まで務めただけあり、政治家として相当の人物として浮かび上がってくるが、私生活はまるでダメの“駄々っ子”だったのが面白い。

靴下をはけば、かかとの部分を上にして「なぜ、ふくらんでしまうのか」と不思議がるなど、この手のエピソード満載の男でもあったのである。

(本文中敬称略/この項つづく)

「週刊実話」1月23日号より

小林吉弥(こばやし・きちや)

政治評論家。早稲田大学卒。半世紀を超える永田町取材歴を通じて、抜群の確度を誇る政局・選挙分析に定評がある。最近刊に『田中角栄名言集』(幻冬舎)、『戦後総理36人の採点表』(ビジネス社)などがある。