マッカーサーの「総理就任要請」を2度も拒否!“バルカン政治家”三木武夫が見せた豪胆さと矜持



石橋政権誕生でも「陰の主役」

駆け付けた三木に、マッカーサーはこう言った。

「今度はキミの番だ。総理大臣をやりなさい」

占領下におけるマッカーサーの権限は絶大である。簡単に「ノー」と言えるものではない。

しかし、三木はその場で「それはお受けできません」と断りを入れ、再び面会して要請されたときも、なお引き受けることはできないと「首班指名」を固辞している。

筆者は三木夫人の睦子から、その話を耳にしたが、三木がマッカーサーに再度断りを入れて帰ってきたときの模様を、次のように語ってくれたものだ。

「三木は『断ってきたよ』と戻ってきました。そこで私が『男一匹、やってみたらいいんじゃない』と言いましたら、三木は毅然として『マッカーサーには、日本には“憲政の常道”というものがある。与党の内閣が総辞職で退陣するのなら、政権は野党の第1党である自由党に任せるべきです、と説明してきた』と言っていました。三木からすれば、マッカーサーに『あなたは民主主義の国の人ではないですか』と言いたかったのだと思います。周りは三木のことをいろいろと言うけど、三木という男は、いざというときには筋を通す男でしたね」

三木は保守合同が成って現在の自民党が誕生し、政権が鳩山一郎から戦前を代表する言論人であった石橋湛山になる際も、重要な役割を果たしている。

石橋内閣の誕生について、巷間では総裁公選の決選投票で岸信介を破った「7票差の大逆転勝利」と、これを実現させた石田博英(元労働大臣)のウルトラCが知られるところだが、じつは三木の舞台裏での動きが勝敗を左右していたのだ。

まさに「陰の主役」である。

岸、石橋、石井光次郎の3人による総裁公選となったとき、とくに実力者の大野伴睦、池田勇人のグループが誰を支持するかで、大きく情勢が変わるとみられていた。

大野と池田を取り込んだのが、じつは石橋の参謀格を務めた三木だったのである。